きょうの日記 2019年8月24日 (『海を撃つ』に書かなかったこと)

 震災後の私の状況をある程度知っている方から、著書『海を撃つ』のなかに、私に対して寄せられた批判(というよりもほとんど誹謗中傷)にあまり触れられていないことについて意外であるといった感想をしばしば頂戴する。(いまもネットで私の名前、ないしは「福島のエートス」で検索すれば、その幾つかは見かけることができるだろう。)

 なぜあっさりとしか書かなかったのか、と言われると、私の現実の生活にも活動にも大きな影響はなかったし、いま現在、私自身がそのことにほとんど興味がないから、という答えになると思う。ネット上の誹謗中傷を信じた何人かの交友関係は確かに壊れたし、その時々には悔しさであったり、悲しさであったり、強い感情を覚えたのも事実であるけれど、だいたいの交友関係ではあまりの荒唐無稽さに呆れこそすれ、信じる人はいなかったし、また、その当時の感情は、その後の別の出来事にもたらされた強い感情によって置き換えられてしまった。震災後の経験のなかで、自分の経験を主観的に併置してみた時に、あの時のあの感情やあの出来事が格別に大きいかと言われると、驚きはしたけれども、多くのページ数を割いて書くほどのものではない、という結論になる。だから、事実関係としては書きとどめたけれども、それ以上のことは書く気にならなかった。

 だが、直裁に言えば、これらよりも、誰もが「被害者」でありたがる昨今の風潮に辟易していることが最大の理由だったのかもしれない。書けば、私は容易に「被害者」となることができ、また同情を集めることもできるだろう。そして、「被害者」としての発言権を確保し、なんらかのもの申す立ち位置を確保できるかもしれない。(勿論そうはならなかった可能性もあるが。)

 そして、「被害者」である私に味方し、また誰かが誰かを罵り、あっちとこっちで言い合いがはじまる。見飽きた光景だ。停滞だけの進歩のない対立がまた繰り返される。こうした、被害者/加害者といった、あまりに単純化された原発事故以降の戯画的構図の枠外に自分をおいておきたい、という心理が働いていたのかもしれない。と、『災害ユートピア』の一文を思い出した。

与える者と求める者は二つの異なるグループとなり、受け取る権利があることをまず証明しろと要求する者から…与えられることには、喜びも団結も生まれない。
 独立と依存の違いであり、互助と慈善の違いである。(76ページ)

 「被害者」「加害者」の二つのグループに分けられることは、互いの経験を共有することを心理的に妨げる。それぞれの経験を己のものして内面化しうる共有や分かち合いは、互助的な関係においてしか成立しないのではないだろうか。