高原の村
東北の高原の冬は、ただ、凍みる。
奥羽山脈付近で湿度を雪に変えた寒気は冷たく乾いた空気となって、太平洋間近の高地を覆う。
積雪量がさほど多くない代わりに雪に覆われない大地は凍てつき、人の手が入る事を拒む。
厚く凍った地面は金属のツルハシでさえ、はじきとばす。
暗い部屋の土間にカッカと薪ストーブが燃えている。
粗末な部屋に見合った粗末な薪ストーブだ。
ストーブの上にはいつも何かしら鍋が置かれていた。
鍋で煮られているのは芋のような野菜のような、あるいはお粥のような、今となってははっきりと思い出せない。
ただ子供が楽しみにするようなものでなかったことは確かだ。
薪ストーブを囲むように上がり框がしつらえられ、そこに腰掛けている間だけは、束の間寒さを忘れる事ができる。
長方形の鉄製のストーブは薪をくべる分だけ熱を帯びる。
ふと指が触れれば、痛みと熱さが同時に襲ってくる。
かんかちしたのが、もごいこと。
どれ、ばっぱがなめてやっから。
ばっぱが痛む指をそっと口に含む。
とおいとおい記憶の奥で、もうそれが現実であったかどうかも定かでない。
けれど、その触感だけが妙に現実味をもって思い出される。
決して明るいとは言い難い天井の張られていない居間には掘コタツ、奥には餅飾りがあった。
上は中二階のような構造となっていて、昔は蚕でも飼っていたのかも知れない。
当時はもう使われておらず、ただ暗闇だけを湛えていた。
堀コタツの足下には熾炭が熱を放っている。
部屋を彩るはずの餅飾りは部屋の暗さと相俟ってどこか陰鬱な印象だ。
枝に刺した赤と白の餅は人間じゃないものの居場所のような気がして、子供心に怖かった。
どれ、ばっぱが"ぺろ"作ってやっから
そう言ってばっばが暗い台所で作る手打ちの麺は褐色がかり、ボソボソとしてあまり美味しくはなかった。
台所の隅にはもう使われていない古い竃がふたつ並んでいる。
その奥には牛小屋があり、明かりの入らない暗闇に牛がつながれていた。
光の当たらない暗く寒い場所に佇む一頭の牛をいつも気の毒に思っていた。
夫が語る高原の村の記憶は、寒く、暗く、豊かとは言い難いが、それでいて、まるで熾炭のようにぼんやりとあたたかく、明るい。
義母が以前ふいに語り出した事がある。
うんと子供の頃の話な、
じっちが運転する荷車の荷台で、夜空を見上げてたの。
満天の星っていうの、空いっぱいに星があって、
なんとも言えずきれいなもんだ、と見てたの。
そんでな、前に友達らと尾瀬に行ったの。
夜、みんな星が綺麗って騒いでるの。
それ見て、おれ、なーんだ、あんなの昔じっちの荷台で見た空の方がよっぽど綺麗だったと思ったの。
高原の村を故郷とする義母は月足らずで生まれてきた。
身重の祖母が、冷たい水に足を浸しながら田植え作業に励んだ結果だという。
それは義母にとって、後年体調不良に悩む自分を運命づける重要なエピソードとなった。
盛夏にも涼をもたらす高原の水が、恵みと思われるようになったのはごく最近の事だ。
いつまでもぬるまぬ水は生活の厳しさを象徴するものだった。
海に近い里育ちの義父は高原の村をただ「山」と呼び慣らす。
若い頃に一時期この村に住み込み、自転車修理の仕事をしていた事がある。
山さ、行ってくっか。
義父がそう言えば、高原の村へ出かける事である。
自転車修理工の後、自動車販売のディーラーへ職を変え、今は悠々自適の生活を送る義父が嘆息交じりに言う。
あそこの山はいい山だどー。
いい山には、春には山菜、秋にはキノコが豊かに顔を出す。
義父が「七曲がり」と親しく呼び慣らす峠道は、昔は浜から山へ向かう街道の難所として知られていた。
舗装もされない折れ曲がった道を通るバスに乗る事がどれほど難儀であったか、以前聞いた事がある。
まともに口なんか聞いてられねえど、は。
いやいや、雨の後なんかおっかなかったど。
雪なんか降ったら通ってらんね。
今ではきれいに舗装され、カーブも緩やかに整備された峠道を抜けると、これまでの道が嘘であったかのような、ふところ深く、なだらかな丘陵地がぽっかりと顔を出す。
緑美しく湿度の低い高原は、さながら異国の風景に似ている。
流れる時間もどこかゆるやかで、これが同時代の風景であるということを束の間でも忘れさせるには充分だ。
高原の春は遅く、麓の里よりも遅くに芽吹き桜が色づく。
あえかな色は、ここが山上である事を忘れさせる平かな景色をやわらかく染め上げていく。
なだらかな山に牧草が光を受け、サラサラと揺れている。
みずみずしい緑にうかびあがるように艶やかな褐色の牛が草をはむ。
麦秋の頃の美しさはまた格別だ。
澄んだ日射しにこがね色に輝く畑、麦の穂が揺れている。
墓地の側は墓参りの車でごった返している。
木陰を探しながら舗装も造成もされていない小道を登っていく。
めいめいが備えた花や線香で墓地は賑わっている。
眺めの良い墓地から望む丘陵地の空の広さは天下一品だ。
全天が地に向かってひらかれている。
陽は、降りそそぐ。
地の恵みを祝福するかのように。
そしてあの日、高原の村には、しずかにテラベクレルの雪が降り積もった。
原子は原子核と電子で構成され、原子核はさら陽子と中性子で構成される。電子はマイナスの電荷を、陽子はプラスの電荷を帯びる。陽子と中性子の数量の総計を原子の質量数と呼び、元素は陽子の数量で区分される。同じ元素でも中性子の数量が異なるものを同位体と呼び、区別する。
私たちが結婚の挨拶に訪れた時に、せっかく来たんだからお茶でも飲んでいけ、と上げられた板間で焼酎を出してくれた義母の弟は、
いやいや、たいした騒ぎだ。ひと騒ぎだ。
ひどい世の中になったもんだ。
そう言って薄くなった頭に手をやった。
爆発の起きた日、高原の村へ下の里から避難した人も多かった。
両親もそうだった。
さらに、そこから娘のいる街まで避難する両親を叔父は途中まで送ってくれた。
その晩のことだった。
それが降ったのは。
天然界に多く存在し安定したウラン238に対して、核分裂しやすいウラン235は天然界では0.7%しか存在しない。原子力発電では、ウラン235の含有量を3〜5%に増やしたウラン燃料に中性子を当て、核分裂させた時に出るエネルギーを発電用熱源として利用する。発生した熱で水を水蒸気にかえ、蒸気タービンを回転させて、発電するのである。ウラン235が核分裂すると、同時に、新たな中性子が2〜3個発生する。その中性子をさらに連鎖的に核分裂反応に利用するように考えられたのが原子炉である。
核分裂とは、原子核を、二つ以上の別の原子核(元素)に分裂させる反応である。
芽吹き始めのみどりは、極上の水彩画に似てどんな光線もふわふわの輝きに変えてしまう。
今年も色を載せはじめた木々の梢を抜け、髪を皮膚を撫でていくのはシーベルトの風だ。
どんな顔料を持ってきても染める事ができない、赤ん坊の手よりも繊細なあの小さな一葉一葉に風はやさしく触れていく。
ウラン235が核分裂した結果、いくつかの放射性同位体が発生する。これらの原子核は安定性に欠き、陽子と中性子の均衡した安定した状態になるまで、放射線を発しながら崩壊していく。
たいらかなやさしい丘陵は色が載るたびに、あまい息を吹き出しているように見える。
胸いっぱいに吸い込むと色彩まで体内に入ってくる。
あまい空気とふわふわの色彩に身体ごと染められる。
起こされないままの田には、春のやわらかな日を受けながらセシウムがまどろんでいる。
放射線とはエネルギーの移動であり、重さのある粒子と、重さのない電磁波に分類される。放射線はエネルギーが大きいため透過力が高く、通り道の原子にエネルギーを与えて、その原子から電子をはじき出す。はじき出された電子は、マイナスイオンとなり強いエネルギーを他の原子に与え、一方電子を失った原子はプラスイオンとなり、同様に高いエネルギーで他の原子に反応を与える。
生命体の場合、これらの電離作用がDNAに損傷を与え、DNAが自己修復に失敗すると、細胞が癌化する原因となると言われている。
高原の初夏、地表を覆うみどりはまだ若い。
暗闇を乱舞する蛍の群れ、空間を舞う光は、波動であり粒子である。
あの空のずっと先、はるか向こうの太陽では、ずっと昔から核融合反応が続けられている。
水素がヘリウムになる過程で膨大な熱を放ち、それが遠く離れた私たちの地をあたため、光を、色彩を与える。
あの輝く球体は、75%が水素でできているのだという。
私たちに届くこの光は、電磁波の一部が可視光線として視覚に認識されているにすぎないのだという。
そして畏敬の念とともに、私たちは天に手を差しのばす。
少女と呼ぶにもまだ幼い頃の義母が、高原の夜に見た恒星の輝きもまた、原子核のまばゆい輝きに満ちている。
ひかる夜空は、ただ天蓋としてそこにあるのではない。それは、無数の物質とも呼べない微少な存在に満たされ、幼い義母を絶え間なく貫き、私たちを通り抜け続けている。
その軌跡が、かすかにでも発光するならば、私たちの身体も、この世界も、あたりいちめん、明滅するやわらかな光に包まれるのだろうか。
見晴らしのよい丘の上に立つと、畳なずむ山々の稜線がはるかに広がって見える。
あのいちばん遠い稜線のその向こうには、太平洋がある。
そして、ここからむこうへは、行ってはいけない。
(2011年5月7日)