14時46分の日常

今年は新型コロナウィルス騒動もあって、震災が話題になることが少なく、とりわけ風化を感じるという声も多く聞かれるが、こと原発事故にかんしては、私は、これはよい風化であるようにと感じている。というのは、これまで口を閉ざして語らなかった人がポツポツと語りはじめる様子があちこちで見られるからだ。被災者だけでなく、関心を持ちつつも、なにを言うべきか迷い語らなかった人たち、そして、若い世代。震災時に、経験を十分に言語化するほどに成長してなかった世代が、少しずつ語りはじめている様子が見える。おそらく、彼らはきっとこの先もっと強く語りはじめるだろう。年長のお節介者としては、彼らには、私たちが夢中になってきた、実に不毛な安全派、危険派、デマ撲滅派といった党派性に陥らないでほしい、と願っている。事故後、あまりに不毛すぎる論争に年長の世代は心囚われ、時間を空費し、消耗してしまった。

今年の14時46分は、喫茶店にいた。店内の人びとがどんな反応をするのか見たかった。手元のスマホで時刻を確認しながら、様子を見る。14時46分。ここではサイレンは聞こえない。向かいの男性高齢者ふたり組は会話を止めない。その隣のマスクをかけた同じく高齢の帽子姿の男性客は、漫画雑誌から視線を動かさない。上の席では女性の話し声。店の外に止まった車から、やはり大きなマスクをかけた女性のふたり組が笑顔で片時も喋りやめないまま店のドアをあける。いらっしゃいませー、とカウンターからの声。食器を洗う音も止まない。14時47分。店内の誰ひとりとしてこの時間を気にも留めていなかった。途切れなくなんの変哲もない時間が流れていった。店を出ようとテーブルに置いてあった注文伝票に手を伸ばした時、男性高齢者ふたり組がふっと黙り、静かに煙草に火を付けた。それから、窓の外を少しだけ見やって煙を吐き出した。そしてまた会話をはじめる。それを見届けてから席を立った。これが私たちの日常だ。店を出て、空を見上げる。この近くには避難自治体の仮設役場があるはずだ。そこではまったく別の14時46分が流れていたのだろう、とふと思う。通りがかった公園からは子供の跳ねる声。これが私たちの日常だ。