パンデミック雑感10 そのリスクはどれほどのものなのか?

原発事故のあと、政府によって無数の基準が設けられた。そのなかでももっとも影響を残したものが、避難区域の設定だろう。発災直後の、3km、5km、10km、20kmと出された避難指示は、一ヶ月後に放射線量の高い地域が加えられ、最大のものとなった。4月22日頃の話だ。

私がその時からずっと考えていたのは、そのリスクはどれほどのものなのか。それは私たちが本当になにかを失うに値するものなのか。ということだった。もちろん、放射線量が住むのに危険すぎるほどに高ければ、しばらくの間居住が不可能となるのはやむを得ない。ただし、そのことと引き換えに、まるごと地域の生活は失われ、ふたたび元の姿に戻ることは困難を極めることになるだろうし、おそらくは、2度と回復しない地域も出てくる。ほんとうにこの線量はそれに値するだけのものなのか。私はずっとそれが知りたかった。

いまの私の発言トーンからすると意外に思われるかもしれないが、当初の私は、2012年の区域再編によって「帰還困難区域」「居住制限区域」とされた地域以外、つまり「避難指示解除準備区域」の避難指示は、早期に解除すべきだ、と思っていた。なぜなら、2012年に「避難指示解除準備区域」と指定された地域の放射線量は、避難指示が出されなかった地域と比べてみても、さほど高いとは言えないものだったからだ。確かに、福島第一原発からの距離は近くなるため、事故の収束作業のトラブルによる懸念は強まるだろうが、とは言っても、住民の出入りを全面的に禁止するほどのものではないだろう。ずっとそう思っていた。ただ、事故機からの距離や、避難指示が出されたことによって生じる「危険地域」というイメージがぬぐえない場所に、賠償の打ち切りによって帰還をなかば強制されるような状況になるのは望ましくない。帰還の有無によって補償を区別するのではなく、いずれの選択肢をとっても同等の補償がされるような選択の自由を残した上で、出入りは自由とする、そうした形がもっとも望ましいのではないか、と思っていた。

これならば、たとえば、すぐには戻らないとしても、家屋や敷地の様子を見に帰ることもいつでも可能だし、また地震の被害にあった建物やインフラの復旧工事の業者も入りやすくなっただろう。(避難指示解除がされる前は、工事業者が出入りすることを嫌い、解除に先立ってインフラ整備をすることが非常に困難であったのだ。)

当時の世論は加熱しており、おそらくこの意見が多数の賛意を得ることはできなかったろうし、当該避難指示解除準備区域の人たちにさえ、反対されたかもしれない。だが、選択の自由と補償をセットとした上で、避難指示を解除しておけば、おそらく、これらの地域の復興はいまとははるかに違ったものとなったろうし、より以前の姿に近い状態を保持することができたのではないかと思う。その放射線量に対して、失うものがあまりに大きすぎた。仮に、失うことが不可避であったのだとしても、せめて、その根拠をつまびらかにし、いったいどのような条件でどうするのがよいのか、この選択をとればなにを得て、何を失うことになるのか、それくらいは十分にシミュレーションした上で討議し、明らかにしてほしかった。だが、それがなされることはなかった。

避難指示解除は遅れた。最終的に、避難指示解除準備区域を含めた地域の避難指示が解除されたのは、2017年。その頃には、家屋の多くが朽ち、また地域の離散も既に進んでいた。放射線量は、避難指示が出なかった地域と同様、はるかに低減したかもしれないが、元の暮らしを取り戻せる条件そのものが失われてしまったのだ。それはひとたび失われれば、取り戻すことはできない。そういうものだ。もう元の姿を取り戻すことはできない、それがはっきりしてから、今度は、政府は慌てて解除と帰還を促進し始めた。なんということだ。放射線量が他の避難指示のでていない地域と比べて高くもない地域の避難指示解除は、いつまで経ってもおこなわなかったというのに、今度は明らかに他の地域より放射線量が高い地域になってからは、避難指示を解除しなくてはならない、と言い始める。そして、今や、放射線量そのものに対して口をつぐみ始めるのだ。それなのに、なにが起こったのか、どうすることが望ましかったのかも誰も語らない。それを振り返ることを拒絶するかのように、思考を遮断し、まるで何事もなかったかのように振る舞いはじめる。2017年以降は、この国は、自分たちの経験を反省し、なにかの改善につなげようと言う意思そのものを持たないのだ、と確信するようになった。それは、国家、政府に限った話ではない。国民全体に蔓延する「空気」だ。

今回のパンデミックの緊急事態宣言をめぐるドタバタを見ていても、まったく同じことを思う。一時的に世論は加熱し、激しく言い争いをするのだろう。その論争の下で、多くの暮らしが壊れ、失われ、苦しむ人々が出る。だが、それがどのような影響を与え、なにを失うことになるのか、十分な検討がなされることはない。一部の専門家の意見とまったく見識というものを持たない世論の風見鶏の政治家の判断だけで、国民にその全容がつまびらかにされることはないまま、また空気による決定が行われる。そして、やがてことが終われば、被害を受けなかった人は、少しだけ同情を示した後に、なにごともなかったかのように平然と日常に戻る。施策当事者も含め、誰もがその被害を見なかったことにし、なにもなかったことのように忘れてしまうのだ。残されるのは社会への亀裂だけだ。たぶん、それがこの国の空気というやつなのだろう。