時間がつながる

年越しは、毎年、南相馬の夫の実家で過ごす。鹿島の海沿い、津波からは逃れた本家に顔を出し、98歳の伯父に挨拶をした。伯父の世話のために実家に戻っている従兄が本を何冊も買って親戚に配ってくれたというので、礼を言う。この従兄の奥さんが、本の比較的冒頭近くにある「富岡町、ほんとにだいじょぶなんだろか」というやり取りのエピソードの相手になる。いい本だったよ、と笑いながら言い、少しだけまじめな顔になる。子供の世代、その子供の世代のことをもうちょっと考えなきゃいけないなと思った。俺らの世代は、自分たちのことばっかりだったからな。照れくさそうにまた笑って、話題を変える。

本家の裏山は、震災後の復興工事の土砂採取のためいつのまにか忽然と姿を消し、敷地はまるでパノラマ展望台のごとくで、おそろしく見晴らしがよくなった。海岸沿いの堤防工事は終わり、巨神兵のような巨大風力発電施設と敷き詰められたソーラーパネルがよく見える。震災時の混乱からうってかわってあらわれた人の気配のない整然とした風景は、安堵とともに漠然とした寂寥感がこみ上げる。これが望んでいた現実なのだろうか、と思うと同時に、もはやそんなことを考えてもしかたのないことだとも思い、浜通りの冬らしい、晴れ渡った空とつめたい空っ風に首をすくめた。

南相馬の正月は虚脱している。震災後に入ってきた工事関係者たちが正月には皆いなくなるからだ。震災後に減った人口ぶん、盛り上がりの薄まった正月の気配になる。そんな正月もはや9回目だ。震災前の賑わっていた正月の記憶も、どこまで本当のことなのか、だんだんとあやふやになっていく。そして、震災後の非日常的な雰囲気も次第に失せ、変容した世界もそのまま日常へと溶け込んでゆく。なじみの蕎麦屋で恒例の年末の蕎麦を食べながら、震災前と震災後の時間がようやくつながったのだなと思った。

震災後、私たちは非日常の世界のなかにいた。多大な混乱と狂騒の一方、日本は変わるのだ、ここから新しい社会がはじまるのだとの熱気もあった。それらのすべてが原子力被災地にはうねりとなって流れ込んだ。いま混乱と狂騒は去り、新しい日常の秩序がはじまった。熱気もなく、新しみもなく、震災前から変わることもなく、あるいは、より劣化した形で。いまは、あの熱気は霧散し、ただただ光と風にさらされる、かつてどおりの浜の乾いた冬があるだけだ。思えば、震災前の日本は、この場所は、そんなによいところだっただろうか。震災後の熱気によって上乗せされた幻想としての被災地、それらに浮かされるように過ごした震災後の時間が流れ、そして、私たちのもとには、結局なにも変わらずはじまらなかった現在だけが残った。原発事故を経ても、私たちは変わることができなかった。

チェルノブイリの被災地が状況が落ち着いたと思えるようになるまでに、事故からおよそ10年を要した。そこから、新しい動きが出たと思えるようになるまで、さらに5年。これから先の5年、原子力被災地にはどのような時間が流れるのだろうか。
過ぎ去った激動の2010年代。訪れる2020年代に幸多からんことを。
謹賀新年2020。