小委員会傍聴

たまたま都内に出かける用事があった翌日に、経産省の汚染水の審議会が開かれることになっていたので、傍聴に寄ってみることにした。報道で繰り返し伝えられている小委員会で、今回が最終であるということで、傍聴席は満席とまではいかずともかなりが埋まっており、150名程度はいただろうか。会議前に、前方の方形の委員会席に報道が列になって映像を撮影して、議事がスタートする。

以前、放射線審議会を見に行ったり、規制庁のネットで動画公開されていた他の委員会の様子を画面越しにみていたりしているので、政府委員会というものがどんな感じで進むのかだいたいの様子は知っているが、会場にくると空気感がわかるので、おもしろい。今回の小委員会は、注目されている内容であるから、熱心に聞かれていた気がするが、いまや、東京が福島案件で関心を払うのはこのことだけになってしまったのだなと、少しばかり皮肉めいた考えも浮かぶ。

恨み言は恨み言として、このタイミングで復興予算が大きく減らされることの意味を深く考えている人はどれくらいいるのだろう。2021年までの10年間に、年間3兆円を超える金額が被災地には注ぎ込まれてきた。まさに湯水のごとくだ。それが2022年からの5年間で約1兆円になる。年間にすれば2,000億円。若干色をつけたとしても、年間3,000億円には届かないかもしれない。実に十分の一以下の金額だ。興味のある方は、福島県の避難指示が出ていた自治体の予算規模を調べていただきたい。震災前から比べると、震災後最大時で4倍、避難指示解除後数年経っても2倍超の規模になっているところもある。これは自治体予算であって、環境省等、国や県の直轄事業は含まれていない。福島県の予算規模も、震災前はおおよそ1兆円を切ったところだったのが、震災後、1兆5,000億円を上回る規模となり、今は1兆5,000億を下回っているが、それでも震災前に比べれば1.5倍となっている。いわゆる被災地の復興として報じられる動きのほとんどは、ほぼこれらが財源となっている。これが削られることがどういう意味を持つのか、考えるまでもない。これらの使い道がどうであったかという評価はまた別としても、金の切れ目は「なにか」の切れ目となることはまちがいないだろう。いや、きっとこんなことは、本当はみなわかっているのだ。だが、考えることが怖いから、考えても自分にはどうしようもないから、考えないふり、見ないふりをしているのだ。

福島の復興の最大の敗因は、結局、新しいビジョンや価値を生み出し、共有することがなにもできなかったというところに帰結するのだろう。当初は官民協働といった大きなムーブメントもあり、民側と協働していこうという新しい動きもあったが、そうした動きも2015年頃からは急激に薄れ、今となってはみごとなまでの官主導だ。2015年から2017年にかけて、それまでの積み上げまですべて、官制復興へと塗り替えられていってしまったのは、いったいどうしたことなのだろうと今も怪訝に思う。(国の陰謀や策略などではない。社会思潮が凄まじいまでの勢いでその方向へ流れていったのだ。)そして、その官の予算が大幅に減ることになる。

津波の被災地では元の町がなくなってしまったわけだから、否が応でも新しい町の姿を考えなくてはならなかったが、緩慢に朽ちていく過程を経た原発事故では、「元に戻る」という幻想をいつまでも抱き続けることが可能であった。それは、誰しも抱く望みではある。だが、同時に、新しいビジョンを生み出すためにはマイナスに作用した側面があるのかもしれない。核災害被災地の場合は、新しいビジョンを生み出すためには、前提として放射能汚染度ののゾーニングや見通しを明示する必要があったけれど、それがなされなかったことも根本的な敗因としてある。私が当初しつこく線量分布の先行き見通し図を示せ、と言っていたのは、線量的に元に戻ることが可能な地域とそうでない地域の見極めを早期に行う必要があるという認識だったからだった。見取り図なしには、ビジョンも考えようがない。ビジョンなしの復興政策は迷走に迷走を重ね、やがて、放射能さえなくなれば、というよりも「風評被害」さえなくなれば元に戻るはずだという主張が大勢を占めるようになり、そのことも新しいビジョンを生み出す動きをいよいよ阻害してしまったように感じている。

なんにせよ、そこに自分が主体的にかかわることのできる、魅力的なビジョンがあると感じられるところにしか、人は夢や希望を抱いてやって(戻って)きたりはしない。

つらつらと小委員会傍聴に絡めてこんなことを考えたのは、もはや、この「水」問題だけが唯一、首都(国家)と原発事故/被災地をつなぐ「絆」となってしまっているからなのかもしれない。皮肉なことに、この「水」問題が解決すると同時に、首都(国家)の大勢は誰も原発事故/被災地に関心を払わなくなり、この原発事故にかかわるすべての残務は、局所化されたいびつな地域問題として残されることになるのだろう。