脱色された物語のこと

ここのところ、読む本読む本、よい本ばかりにめぐり合っている。これだけすばらしい本があるのだから、自分が書くことなんてないんじゃないかな、と思って読書を楽しんでいた(自分がやらなくても他によい仕事をする人がいるなら、自分はしなくていいや。と思う怠け者気質。)

ことに語ること、大きな出来事を史実として残すこと、あるいは物語として残すことについては、最近の関心どころだ。

そういったテーマ意識を持って、昨夜の『この世界の片隅で』がテレビ放映されていたのでみたのだけれど、拍子抜けというか、がっかりしてしまった。ポップな懐古趣味というのだろうか、戦中を経験した世代が高齢化し、少数派になってしまったから、こうした戦中の暮らしぶりの描写が新鮮に感じる世代が増えたということでもあるのだろうが、とりわけ、人間描写のあまりの脱色のされぶりには言葉を失った。寓話化というには雑すぎるし、こうした記号化した人間描写でなければいまの時代には広く受け入れられないのだ、ということに愕然としたのだった。物語のつなぎもいまひとつであったし、タイトルとなっているセリフの出てくるシーンは、呆然としてしまった。原爆投下後の状況を想像してみたとき、あの場面であのセリフを物語に入れ込むことに、感覚、感性の違いという括りでは片付けられない違和を感じた。

冒頭の広島の戦前の街並みのシーンは、こみ上げてくるものだがあったけれど、期待があったせいか、75年を経てこういう脱色され尽くした物語になって受容されるのか、と気落ちしてしまった。

原作の漫画家の別の作品『夕凪の街 桜の国』はとてもよかったので、映画化のしかたがまずかったのではないかとも思うけれど、昨夜から、それでちょっと落ち込んでいる。