スティーブ&ボニー (12) 砂漠に夕日は落ちる

天井に太いパイプが通る廊下をとおりぬけて、まるで映画で見た宇宙船の操縦室のような部屋に入る。部屋の中央奥には測定器機類にぐるりと囲まれた操縦台のようなデスクがあり、大きな椅子がひとつ置いてある。中央コントロールルームだ。部屋の壁には、びっしりとボタンのようなものが並べられ、ひとつずつにアナログな表示器がついている。部屋の入り口手前の狭いスペースにも同じようにびっしりとなにかのインディケーターと思えるものが並んでいる空間があった。ガイドの男性が、操縦台の前に立って説明を始めた。この中央コントロールルームで原子炉内の状況は監視されていた。それぞれの設備の状態がここの各種インディケーターに表示された。周囲の壁にびっしりと据え付けられているボタンと表示器は、2400本のウラン燃料のそれぞれの状態だ。温度、圧力など、それぞれが2400個ずつ表示されている。現在であれば、こうしたデータ類はすべてコンピューターで解析して処理されるが、コンピューターがない当時はすべて手作業で確認作業をしていた。原子炉は、いちど連鎖的に核分裂反応を起こす臨界状態にはいると、稼働を止めることはできない。24時間休むことなく、交代しながら2400本の燃料の状況を手作業で監視し続けたのだという。それは緊張感をともなう心理的なストレスも大きな作業であったそうだ。見学者たちも目を丸くして説明を聞いている。世界でかつて前例のない、そして少しでも手違いがあれば大惨事となることが確実な原子炉で、これだけの数のインディケーターを手作業で24時間体制で休みなく管理し続けることが可能であったことに驚く。当時の作業者たちの士気の高さがうかがえる。

ついで入った部屋には、銀色に輝く大きなタンクがあまり高くない天井までところせましと部屋いっぱいにそびえ立っている。空気を管理する部屋であったらしい。壁沿いの通路を兼ねたあまり広くない空間に、小机が置かれ、そこにファイルが広げられている。人混みで立ち止まっていると、ファイルをめくっていたジャックが私に声をかける。これ、見て。日本の爆弾だ。ファイルを覗きこんで見ると、そこには日本から飛ばされた「風船爆弾」のことが書かれていた。

風船爆弾は、第二次世界大戦末期、日本の太平洋岸からアメリカ大陸に向かって飛ばされた気球型の爆弾だ。和紙をコンニャク糊で強化した気球部分に水素ガスを充填することによって浮上させ、後は、ジェット気流まかせでアメリカを攻撃するという、かなり原始的、かつ、運まかせの兵器であったが、その一部はアメリカ大陸にまで届いていた。風船爆弾は、茨城県北部北茨城、福島県南部の勿来海岸から飛ばされたことが知られており、そのせいで私もその存在を知っていた。ここで風船爆弾の話に遭遇するとは。資料によれば、風船爆弾アメリカの17の州に渡って着弾が確認されていた。そのうち一つの爆弾は、1945年5月5日に一人の女性と五人の子供たちを殺している。そして、ここハンフォードにも着弾したものがあったようだ。当時は、国民の動揺を抑えるため、風船爆弾の存在は、アメリカ国内でも伝えられることはなかったという。2001年9月11日の同時多発テロまで、アメリカ本土に他国からの攻撃が及ぶことはなかったというから、この風船爆弾がそれまでにアメリカ本土に到達したただひとつの兵器ということになるのかもしれない。それにしても、と、先ほどの中央コントロールルームを思い出す。日本が和紙にこんにゃく糊を重ねた風船を風まかせで海上へ放っている頃、アメリカでは最先端の科学技術を集めた原子爆弾の開発が急ピッチで進められていたのだ。風まかせ運まかせの風船爆弾のお返しに来たのが原爆投下というわけか、半分は呆然とするような面持ちで風船爆弾の詳細な図面を見ていた。

ひととおりリアクターの見学を終え、最後にもう一度、原子炉正面ウラン燃料を挿入する壁の前に立った。ジャックははしゃいで写真を撮ろうという。この前で? どんな顔をして? 笑えばいいのだろうか。ジャックは屈託なく笑い、私は困ったような笑顔で、それぞれ写真に収まった。

リアクターの外にはテントが設営され、そこでケータリングの食事をとる用意がされていた。見学が終えた順に、列に並んでお皿に料理をよそって、めいめいに座って食事をはじめる。隣に座ったジャックが、ちょっと、あれを見て!と驚いたように向こうを指差した。指差した方向を見ると、料理を運んできたらしいケータリング会社の車が停まっている。車に大きく書かれたそのケータリング会社の名前は「Ethos」。ジャック・ロシャールたちが1995年からベラルーシ原子力被災地ではじめた原子力被災地域支援プロジェクトの、そして、それをなぞって福島事故後、私が福島ではじめた活動と同じ名称だ。ETHOSという言葉は、元々はギリシア語に由来すると言われ、古代ギリシア哲学者のアリストテレス、それから、近代ではドイツの社会学ウェーバーが用いた、哲学的な概念用語だ。特殊な言葉には違いないが、一般名詞ではあるので、それを他に用いる人がいてもおかしくはない。だが、ケータリング会社の名前にするには固すぎ、不思議に思える。いったいなぜケータリングの会社は、この名前を採用したのだろうか。ジャックは思わぬ偶然に興奮していた。充電が切れかかっていた彼のスマートフォンの代わりに、私に写真を撮ってくれるように頼んだ。食事をしながら、リアクターを見た感想を話す。アメリカがすごいのはわかったけど、なんだかちょっと複雑な気持ちはする。なぜ? とジャックが聞き返すので、だって、ここで作られた爆弾は日本に落とされたんだから、と返すと、彼は、そういうものなのか、という感じで、いまひとつその感覚はよくわからない、という様子だ。そうか、フランスからしてみれば同盟国であったアメリカの核開発施設だ。フランス人である彼からすると特に思うところはないのかもしれない。私たちはどうしてもこれが日本を標的にして作られたのだ、ということが頭に浮かんでしまって、技術だけを見学するという気分にはなれない。ジャックは正面に座っていた顔見知りらしい� ��の見学者と熱心に会話をはじめたので、私は席を立った。

リアクターから出てきたばかりの丹羽先生を見つけた。丹羽先生は、首をひねりながら、いや、たまらんな、かなわんなー、という。あんた、こんな施設をたった一年で作ってしまうたんやで、こりゃ敵うはずがないわ。やはり日本人どうし、考えるところは同じだ。プラントだけじゃない。並行して街まで作ってしまったのだ。しかも、ここ以外にも拠点はロスアラモス、オークリッジにもあった。それなのに、その頃、日本は風船爆弾でしょう? アメリカの国力を知ってた日本人は当時もいたはずなのに、なんだってこんな国に勝てるなんて思ったのか。いや、たまらんわ、かなわんな。70年以上前の負け戦を昨日のことのように思い起こしていささか沈鬱な空気になりながら、見学の際に気になっていたことを丹羽先生に話した。でも、思っていたよりもアメリカ万歳!という雰囲気ではないですね。もっと原爆投下を正当化する展示内容かと思っていたのですが、ほとんどそういった説明がないのに驚きました。 そうなのだ。リアクター内の展示からも説明からも確かに当時のアメリカ国内の高揚した雰囲気は感じられるものの、原爆投下が何万人ものアメリカ人を救ったのだ、とか、戦争終結を早めるのに役立った、という言葉がガイドの口からまったく聞かれなかったのだ。そうした展示もなかった。そうすると、丹羽先生は、ああそれは、とこともなげに説明をはじめた。この施設を国立公園にするという話が持ち上がった時に、日本側にも問い合わせがあったんですわ。その時に言ったのは、歴史的施設として保管するのは結構、ただ、これによって日本人が何十万人と死んどるんだから、原爆をただ賛美するような内容にだけはしてくれるな、それだけはやめてくれ、ただ事実だけを説明してくれ、そう言うたんですわ。その時、日本から国連に出向しとったなんとかという熱心な男がおりましてな、その人も熱心にアメリカと交渉してくれたみたいですわ。実際どうなったかと思ってましたが、来てみて、こうなっと� ��たんかと確認できて、ちゃんとやってくれとるようでよかったですわ。私は、最近ニュースになっていたアメリカ国内の世論調査の結果を思い出した。アメリカ国内で、原爆投下は戦争終結のために必要だったか、という問いに対して、必要なかったとの回答が半数を上回ったというものだった。若い世代ほど「必要なかった」との割合は増えていた。かつては、アメリカでも戦争終結のためには原爆投下が必要であり、これがなければ終結のために何万人ものアメリカ兵が犠牲になっていたとの論調が主流だったはずだ。日本と同じようにアメリカでも戦争当時を知る世代は少数派になってきているだろう。これが70年という時間の経過なのかもしれない。

丹羽先生と話しているとテントの奥の方に、どこかで見かけたことのある女性の姿が見える。驚いて、近づいて挨拶をする。坂東昌子先生だ。坂東先生は、湯川秀樹の教え子にあたる物理学者だ。女性で二人目の日本の物理学会の学会長も務めたという、なかば伝説的な存在であるそうだ。福島の原発事故のあと、坂東先生も避難者支援などにあたられていたことから知り合い、何度かお目にかかる機会もあった。まさかこんなところで再会するとは。ご無沙汰しています。ここへはどうして? いやなんや面白そうな会議があると思って登録してみたんですわ、そしたら、プログラムに安東さんのお名前もあるから、楽しみにしとったんです。お年はもう80歳くらいになられるはずだ。なんとお元気なことか。挨拶もそこそこに、中、みはった? なんや私、きもちわるうて。これぜんぶ、日本を狙って作ったか思うと…。と話しはじめる。やはり日本人は同じことを考えてしまうもののようだ。それで、安東さん、どう思われた? どう、って、なにについてだろう。坂東先生は言葉を続けた。ほら、この原爆を開発するのには物理学者がかかわっとったでしょう。ああ、そのことか。

アメリカの核兵器開発プロジェクトであるマンハッタン計画が1942年に開始されたのは、1939年にアインシュタインなどの物理学者が連名でルーズベルト大統領に送った書簡がきっかけであると言われている。そこには、当時まだ研究者のあいだで発見されたばかりの核分裂反応を連鎖的に起こすことができれば、驚異的なエネルギーを生み出す非常に破壊力の高い兵器を作ることが可能となる、といったことが書かれていた。物理学者たちは、それを当時ヨーロッパを席巻していたナチス=ドイツが先に開発することを懸念したのだった。この書簡によって、アメリカ政府は核兵器の可能性を知り、極秘に核兵器開発プロジェクトを進めることにしたと言われている。

坂東先生は続ける。物理学者が核兵器開発するように大統領に勧めた、言うて、なんや物理学者はマッド・サイエンティストみたいに思われるかもしれんけど、でも、物理学者は、ナチス=ドイツがそれを開発することを心配しとっただけで、実戦に使用するとは思っとらんかった。核兵器が使われそうと知って、直前にはそれを止める手紙もルーズベルトに向けて書いたんですわ。それで、私、そのことを学生にも授業で話したんやけど、そしたら、その若い人、なんて言ったと思います? 先生、それは物理学者が世間知らずですわ。こんな武器作って、政治家がそれを使わん思うことじたいが間違いですわ、って。どう思われます? そこで坂東先生は言葉を止めて、少し不満そうな表情をした。私は、その若い人の言葉は、まったく正しいと思った。国家が勢力と武力を競って拡大していた19世紀末から20世紀、かつてない強大な力を持ち得る武器を手にした人類が、それを使ってみない、という選択をする可能性がその時代にあったとは到底思えない。ひとたび手にすれば、現実に使われることは必然だったろう。仮に、本当に開発だけして、実戦使用されることがないと提言を送った物理学者たちが思っていたのだとすると、学生さんの言う通り「世間知らず」にも程があるだろう。広島と長崎への投下後、核兵器が使用されずにいるのは、その威力があまりに大きすぎ、物理的損害のみならず使用後の社会や国際関係に及ぼす影響も制御できないと理解されていることによるものだ。ただし、それは使ってみなければわからないことだった。広島と長崎の残酷な経験を経て、初めてわかったことだ。私は、そう坂東先生に伝えた。坂東先生は、やはり不満そうだった。真摯な物理学者である坂東先生にしてみれば、物理学者が、あたかも人の心のない、非人間的な人種であるかのように思われることが我慢ならないのだろう。気づけば、砂漠の地平線に夕日が沈み始めている。あたり一帯がオレンジ色にほんのりと染まる。乾い�� �大地に生い茂る灌木も、じきに闇に飲まれていくのだろう。私と坂東先生は、砂漠の夕日を背に、並んで写真を撮った。