2020/03/07 除染土のゆくえ

2020年3月6日付けで、環境省の大臣室などに中間貯蔵施設に運び込まれた除染土を鉢植えに入れて飾ったというニュースが報じられた。

誰の思いつきなのかわからない、大臣本人なのか、もしかすると環境省の人間のアイデアかもしれない。それがどちらであったとしても興味はない。このニュースに対して、こんなコメントをTwitterで見かけた。

中間貯蔵施設を作るときには「危険」だといい、今度は「安全」だという。なんのためにそんなことをするのか。土地を奪うために、「危険」と言っていたのではないかと、感じる。

このコメントを書いた方は、震災前から福島県内居住者で、復興関係の仕事に従事されている(のだと思う)が、ご本人は避難区域の住民ではない。この一連の動きがすべて端的にこの問題にかかわる人たちの立ち位置による感覚の違いを示しているように見えたから、ここに記しておこうと思った。

この鉢植えに除染土を使って東京の環境省建物内に置く、というアイデアを出した人には、悪意はないだろう。「よかれ」と思って、これを実行した。福島県民が苦しんでいるのは「風評」のためであり、それさえ払拭されれば懸念は晴れるはずだ。除染土を中間貯蔵施設に置いておき、行き場がなくなるよりは、再利用して量を減らした方が、長期的には福島県内のために、そして地権者のためにもなる。国としてもありがたい。そこに、自分たちの仕事を理解して欲しい、仕事を円滑に進めたい、そして世間にアピールしたい、という思惑もひそめてあるだろう。

事故から九年が経ち、物理的減衰が進んだこともあり、除染土のいま現在の平均濃度は低い。大多数のものは、8,000ベクレル/kg 以下であるし、その程度の濃度の土壌は、実は県内の他の場所でだっていくらでも見つかる。一部の基準を超えるもの以外は、ただ「除染土である」とラベリングされた以外に、そこに押し込めておく理由はほとんどない。(原子炉等規制法で定められた平常時の放射性廃棄物の再利用のためのクリアランスレベルは、100ベクレル/kgである(参照)という矛盾はあるが、そこは今回は置いておく。) 従って、安全性に大きな問題はなく、最終処分の負担を減らすためには一定の管理の上、再利用するという発想が出てくることは理解できる。ただし、これは、本当に最終処分場に運び出すという前提があっての上のことだ。

中間貯蔵施設の現在の用地取得率は七割を超える。残りの三割は未取得だが、現在の取得敷地面積だけでも、すべての除染廃棄物を運び込み、保管するに足りるだけの面積があると言われている。

おそらく、日本国内のどこにも最終処分を引き受ける場所は見つからない。通常の産廃施設でさえ設置には非常に大きな苦労が必要となるのに、ましてや、折り紙付きの危険物とみなされている放射性廃棄物、しかもあの福島第一原発事故で発生した廃棄物を引き受けるところを見つけるなど、到底可能であるとは思えない。だが、これは政府が地権者に約束し、法律に定めてあることだ。(「日本環境安全事業株式会社法の一部を改正する法律案」いわゆる「改正JESCO法」) いかに実現不可能に思えようとも、法律は法律、約束は約束だ。

さて、政府は当座のところ、これまで定められた法律に従って動いている。つまり、30年後には県外に設けた最終処分場に移設するという方針に従い、除染廃棄物の物量だけは減らそうということだ。そのためには、再利用できるものはした方がいい、ということになる。いくつかの実証実験の動きはあるが、飯舘村の長泥地区を除いて、その動きはうまくいっていない。長泥の場合は、帰還困難区域になり、他の帰還困難区域と同様に除染もされず放置されるか、あるいはこの除染土を引き受け、再整備を行うかのバーターの結果の受け入れであるから、他の居住地域での除染土再利用受け入れとは状況が大きく違う。ただ、その廃棄物受け入れが本当に必要であったのかどうかは、最終処分場のこの後の帰結によって判断されることになるだろう。

中間貯蔵施設を受け入れた大多数の地権者は、おそらくは、政府の約束を信じてはいない。だが、約束は約束だ。それを信じた人もいる。そこで簡単に反故にされたのではたまらない、との思いは少なからぬ人がもって当然だろう。先ほど、政府は目下、30年後最終処分場の方針に従って動いている、と書いたが、それは現在稼働している除染廃棄物の管理方針においてのみであり、肝心の最終処分場につながる動きは起きていないし、議論もなんら行われてはいない。

矛盾に満ちた大方針は放置されたまま、現場は決められた道筋に従って、黙々と作業を進めていく。そこで大きな動きを起こすことは巧みに回避される。問題となるのはなんなのか。本当は、矛盾に満ちた大方針だ。だが、そこで首都の人たちが言い出すのは「風評」なのだ。風評さえなくなれば、うまくいく。風評払拭さえしていれば、なにか前向きに進めている。まるでそう思い込まなくてはならないかのように、ただただ「風評」とだけ言い続ける。

「風評」に困っていないのか、と言われれば、それは困っている人は多いだろう。誰だって自分の住んでいる地域を「危険だ」と言われれば、気分は悪い。そのことによって心ない言葉を言われれば、傷つく人もいる。経済的被害が出るのならなおさらだ。だから、「風評払拭」と言われれば、多くの人は表だって反論はしないし、そのとおりだ、と答えさえするだろう。そして、胸の奥にあるそれ以外の様々な思いや懸念は、胸のうちに押し込め、表だっては語らなくなる。それを見て、ああ、やっぱり福島の人が心配しているのは風評なのだな、と首都の人は得心し、大問題は放置したままに「風評払拭」だけが言われることになる。

ことに渦中の人ほど、言葉は少なくなる。それは、賠償の問題もあれば、様々な人間関係の問題もあるし、複雑すぎる思いを汲み取って理解される気もしないということもあるのだろう。代わりに言葉を発するのは、少しかかわりがあって状況をなんとなく知っている当事者周辺の人間になる。私ももちろんその外側の人間の一人だ。

にこやかに笑う人、それを持ち上げる人、批判する人、分析する人、誰もが外側の人間で、肝心の事柄については口を閉ざす。この国というのは、万事が万事、この調子なのだと思う。なんとなくの空気となんとなくの思惑によって、その時その時の場当たりで行方がなんとなく決められ、それがあたかも意志であるかのようにみまがう「渦」を形成する。後世の人びとは、それは「意志」と呼ぶのかもしれないが、実は、そこにはささやかな思惑や企みはあったにせよ、意志と呼ぶに足るような確たるものはどこにも見つからないのだ。意志なき笑顔は、実にこの国に似つかわしい。