きょうの日記 2019/07/14

ホテルのバーの壁にはふたつの大画面、一面にはMBLの、もう一面ではNBAの試合が映し出され、なるほどこれがアメリカか、なんてなんのひねりもない感想が、少しのワインでほろ酔い気分の頭をよぎってゆく。ここのビールが美味しいんだ、と皆で注文した背の高いグラスにたっぷりと注がれたシアトルビールは、味わったことのない苦みと臭みがあって、これならノルウェーのビールの方がすっきりして美味しかった、と思いながら、二口、三口で飲みやめた。

賑やかなプロスポーツの映像を誰も眺めるでもなく、ただ風景のように流れていくそれをぼんやりと見ながら、めいめいが談笑を続ける。他愛ない日常の話から、もしかすると重要なのかもしれない話から、どれも同じような軽さと重さで、飛び交うボールのように話題はとりとめもない。ふと内緒話をするように、彼が顔を近づけて言う。

「あなたはそこに住んでいる、私たちはいなくなる。外から来た科学者もみんないなくなる。あなたはインテリではあるけれど、地元の人たちとずっと近い関係を持っているし、そしていつも前線にいる。いまは、外人たちとの付き合いもあって、あなただけいい思いをして、と言われたりもするだろうけれど、やがて私たちがいなくなった後も、あなたがずっと変わらないのを見て、きっと人びとはよりあなたのことを信頼するようになる。なぜだかわからないけれど、ベラルーシでもそうだった。きっとそうなる。いずれにしても、あなたがずっとそこに居続けるのは間違いないのだから。」

私は、敵わないな、と思いながら、NBAの試合の画面で、張られたワイヤー上をカメラがボールの動きを追って、右に左に素早く動くのを眺めていた。私がこうしたはるばる海外くんだりまで出かけるような出来事に巻き込まれることになったのは、幾ばくかは自分の意志ではあるけれど、かなりの部分は彼に負うところが大きい。幾人かはそのことを心配して、私に忠告もしてくれたこともある。あまりに彼の「色」がつきすぎるのは、あなたにとって得策ではないと。そのとおりなのかもしれないと思いつつも、果たして「色」のない状況が、私にとってあり得たのだろうか、とも思う。そして、「色」のない状況が、私にとって満足できる状況なのだろうか、とも。

真に私の存在を必要としてくれる人と共にある。信仰告白とも戒律とも言えるような行動原則をいくつか私は持っているが、これもそのうちのひとつだ。おそらくは、遠い昔に読んだレヴィナスのどこかに書かれていたはずの、超越者からの召命とそれを無条件に引き受けることを「義務」を呼ぶという記述からヒントを得ているはずだが、なにせ切れ切れに呼んだ遠い昔のことであるし、本文どおりの意図であるかどうかもわらかない。なんにせよ、この自己創作した戒律とともに私はあった。「真に」とは「二心なく」という意味だと思ってもらえばいい。人生は有限であるし、できることも限られている。その中で、二心なく自分の存在を必要としてくれる人と共にあることができるならば、これほどの幸いはない。そんな私の思いを彼は知らないはずだが、時折、なにかを見抜いたかのように、私の思いを先にいくようなことを囁く。そのたびに、敵わないな、と心の中で苦笑いする。これだから、私はあなたのことが好きなのだ。

口にあわなかったビールをグラスに飲み残したまま、バーを後にする。ちょっと売店によって行きたいのだけれど、と言うと、ついていってもいい?と礼儀正しく尋ねて、子供のように私のあとをついてくる。店内の土産物をああでもない、こうでもないと物色しながら、彼のくれるお土産は、食べ物以外は子供っぽいものがほとんどだったこと思い出していた。