スティーブ&ボニー (11) 「BUY U.S. SAVINGS BOND」

バスは右折し、昨日は通り過ぎたハンフォード・サイトの入り口のゲートを入った。砕石舗装の道路の両側にコンクリートブロックを二段積んで、白いポールが横に渡してあるだけの簡素なゲート。少し日が陰りはじめた。見渡す限りの地平線に、ずっと向こうになだからな乾いた丘陵が見える。空はこんなに広かっただろうか。雲はこんなに伸びやかだっただろうか。行く手には粗末な方形のコンクリートの塊を積み重ねたような建物が見えはじめた。バスは、同じように粗末なコンクリートの塊のような小さな建物の脇を通り過ぎた。川からの水を汲みあげる施設だという。やがて、先ほどから見えていた煙突を備えた建物の前でバスは停まった。これがBリアクターだ。

ハンフォードサイトのBリアクターは、世界で最初に稼働した大型原子炉になる。ここで行われたのは、ウランから長崎型原子爆弾の材料になったプルトニウムを抽出することだ。発電施設としての原子力利用が始まるのは1951年のことだ。原子力の利用は、エネルギー目的よりも軍事目的の開発がはるかに先立っていた。Bリアクターは長崎に落とされた原子爆弾ファット・マンの原料を生産後、一旦は操業を停止したものの、米ソ冷戦時代の軍拡競争を受け、その後1968年までの操業は続けられた。1969年からは、廃炉と閉鎖措置が行われ、Bリアクター以外の炉は解体されたり、コクーン化(密閉措置)されたりして、Bリアクターも2008年時点の計画では解体される予定だった。だが、地元ではそれ以前から25年にわたって歴史的遺物として保存を求める市民活動があり、また、2004年から国立公園とするための調査も行われていた。そして、他のマンハッタン計画の核開発拠点であるロスアラモス、オークリッジとともに、マンハッタン計画を記憶する歴史的遺産として国立公園に正式に認定されたのが2015年12月だ。米国エネルギー省(DOE)の主催により、2009年より制限付きでBリアクターの一般公開ははじめられ、2011年からは米国市民権を持たない人でも立ち入り可能となり、2015年からは年齢制限も解除となった。市民権を持たない人間でも、申し込みさえすれば見学することができるようになったのは、福島第一原発事故があった年以降ということになる。

駐車場のそばには、当時の輸送に使われたのだろうか、古い電車の先頭車両も残されている。なんの装飾もない無骨な建物を下から見上げる。巨大というわけではない。圧倒される存在感があるというわけでもない。薄汚れて古ぼけた、ただのプラントだ。コンクリのキューブの上に見える煙突、煙突の上には、空。どこまでも広い空。これも、ほんとうの空だ。なんとなく、福島の事故が起きるずっと前、近くまで寄ってみた福島第二原発の原子炉建屋を思い出した。福島第一原発とそっくりのその建屋の覆いには、青い空に白い雲の絵が描かれていた。カモフラージュのつもりなのか、なんて子供騙しなんだろう。指差して笑った。そして、おなじデザインの建屋が無残に爆発した映像を、その10年以上後に見ることとなった。

別のバスから丹羽先生が降りてきたのが見えたので近寄って声をかける。口を開くなり、丹羽先生は、あんたの泊まっとるとこのスティーブ、あれはエラいすごい男やで、なんたって数学者だ、と熱心に褒めちぎりはじめた。私は、昨日の車中でのスティーブの疲れ切った表情を思い出して、笑えばいいのか、たしなめるべきなのか、少し迷ったが、結局、曖昧に、スティーブはとてもいい人で、私たちのダイアログのことをとても褒めてくれていた、とだけ話すことにした。丹羽先生が、スティーブの絶賛を終えたところで、昨日会ったフクダさんの話を手短に伝えた。被爆者の身内がいる日系人に会ったこと、その人は姪が早くに乳がんで亡くなったのは、被曝の影響だと思っているということ。私は、丹羽先生に確認したかったのかもしれない。放射線による二世への影響が実際にはどの程度のものであるか、現在の知見はどのようになっているのか。だが、丹羽先生の口から出てきたのは、意外な言葉だった。考え込むように、そうか、原爆のせいだとおもわれとったか、そうか、そう思うよな、そう思うやろ、しゃーないな。と視線を斜め前方に落としたまま、歩きながらつぶやくようにしゃべっている。その反応に、少し虚を突かれたようで、鸚鵡返しに、はい、そう思われていて…、と返した私に、そりゃ当たり前やろ、あんだけしんどい思いをしたら、そう思うのが当然やって、あんた、とうつむいたまま視線だけをこちらに見上げるように投げて、繰り返した。私たちは、そのままBリアクターの狭い入り口に向かい、人の流れにまぎれて別々に歩いた。入り口近辺に立つ案内の人が、快活に言う。「今は、除染は完璧で、中の放射線レベルはまったく問題ないですから!」 私は、外国人ばかりの集団のなかで進路を迷いつつ(と言ってもここでは私が「外国人」なのだった)、先ほどの会話を反芻していた。丹羽先生は、本当に変わった。被爆者の追跡健康調査をしている放射線影響研究所は、世界でもっとも豊富な、�� �た信頼性の高い被爆者の健康影響に関するデータを持っている。被曝が人体へどのような影響をもたらしたのか、その作用機序から疫学データまで、丹羽先生に話させたら、何時間でもとどまるところなく説明できたはずだ。いや、私が知り合った頃の丹羽先生だったら、きっとそうしただろう。私には理解不可能な専門用語や数値を並べ、それが日本語であろうと英語であろうとロシア語であろうとスペイン語であろうと中国語であろうと理解できない話をいくらでもしてくれたに違いない。ところが、彼は、そうした説明を一言もしなかった。ただ考え込み、被爆者の経験した長い戦後の時間に思いを馳せた、のだと思う。観察者の立場から正誤の判断をくだすのではなく、確かに起きてしまった現実の出来事の重さを受け止め、それに黙って耐えることを選んだ。そう、スティーブがそうしたように。

入り口の廊下を入ると、すぐにホールのような広い空間が広がっていた。空間には、椅子が並べてある。ここで、のちほどコーラスを聞くことになっていた。スティーブが熱心に誘ってくれたコーラスだ。背景には、高い天井までびっしりと銀色の円柱が垂直に整然と差し込まれた壁面が広がっている。これが原子炉の正面になる。整然と輝いて見える円柱はアルミニウムで、その内部にはウラン燃料が充填されている。これを黒鉛でできているブロック壁に差し込んで、内部で核分裂反応を起こさせ、その後、化学処理を経て、プルトニウムを抽出するのだ。ウラン燃料棒を差し込む穴は、合計2400個。2400本の銀色のアルミニウムに包まれたウラン燃料が、壁いっぱいに輝いている。もっとも、今は内部にウラン燃料は入っておらず、空なのだろうけれど。乗ってきたバスごとに、ガイドが内部を案内してくれると言う。私たちのバスグループの見学は、冷却水のバルブが並んでいる部屋からはじまった。薄暗いそこには、幾重にも太いパイプが通っており、私たちが立っている鉄製の金網の床の下にも所狭しとパイプが張り巡らされ、ところどころに大きなバルブも見える。ウランからプルトニウムを抽出する核分裂連鎖反応の過程では、膨大な熱が放出される。その熱にさらされる原子炉の冷却は、工程の制御のために決定的に重要なことだった。冷却用の水は、もちろんコロンビア川からの水を利用した。入り口付近で見かけた水を汲み上げるための施設は、冷却用の水を汲み上げる施設だった。世界で最初に稼働した原子炉だから、なにもかにもが初めてだった。冷却水の供給がうまくいかず、危機的な状況になりかけたこともあったようだ。冷却に使用して高温になった水も、コロンビア川に廃棄された。その量は凄まじく、川の水温が上昇するほどだったという。(規則では、川の水温の上昇を11度までに抑える!こととなっていたらしい。) また、核反応後のウラン燃料の冷却や、化学処理の過程でも、水は大量に使用され�� �。それらの一部が、コロンビア川に流出し、周辺環境を汚染してしまうと言う事態も生じた。

私たちは、工場見学とまったく変わらない雰囲気で、ガイドに従って部屋を移動していく。どことなくはしゃいだ様子の一団に、熱心に説明をするユニフォームの青いポロシャツを着たガイドの男性。移動する次の部屋には、壁にチラシなどの展示がしてある。当時、実際に工場内に貼られていたチラシなどだそうだ。ひときわ大きく目立つのが、横書きの横断幕だ。手書きで、「BUY U.S SAVINGS BOND」 と書かれている。戦費に充てるためのアメリカの戦時国債を買おう、という呼びかけであるようだ。寄付金や前線支援の呼びかけのチラシのほかに、工場での福利厚生なのかクリスマスのコンサートやイベントのチラシ、それから「安全情報」と書かれた広報のようなものもみられる。当時のアメリカの高揚が見えるようだ。日本も戦時総動員体制であったが、アメリカでも同じように国威発揚の団結した空気にあふれていたに違いない。総力戦か、とふと思った。しかし、ここで彼らが団結していたのは、敵国である日本を打ち負かすためだ。この熱意がすべて、自分の祖先に向けられていたのかと思うと、なんとなく居心地の悪さも覚え、私はグループから少し距離を取りながら歩いていた。ここにあるあらゆるものが、私たちを標的としていたのだ。ふと気づくと、グループからはぐれたらしいジャック・ロシャールがすぐ近くにいる。私たちは、並んで歩きはじめた。