パディントン

なんだか心が疲れたな、と思ったときには、映画『パディントン』を見ることにしている。(1、2ともにDVDで買いそろえてある。) パディントンの苦闘に涙し、ブラウン家の家族愛に癒やされ、パディントンもがんばってるんだから、もう少しがんばってみるか、と気力を取り戻すのである。

原作の児童小説の『パディントン』は英語圏ではとてもよく読まれているシリーズらしく、DVDおまけの出演俳優インタビューでは、オーストラリア出身のニコール・キッドマン含め、何人もの俳優が、自分も大好きなお話で、原作のよさをまったく損なわない上に、独自の魅力を加えたすばらしい映画になっている、と語っていた。

純粋に娯楽として楽しめる映画ではあるのだけれど、この映画のなかに表現されているいたってシンプルな道徳的価値観ー思いやり、寛容、家族愛、友情、相互理解、助け合い、そしてユーモアといった価値ーが「よきもの」として素朴に提示されていること、そのことにも癒やされる理由がある。2015年からこっち、道徳的な価値は大きく揺らいでいて、どれほど言葉を尽くし、なにを言っても無音の暗闇の中に吸い込まれていってしまうような、そんな徒労感に溢れている。『パディントン』の世界では、発した言葉や信じる道徳的価値が沈黙のうちに暗闇に吸い込まれるような現実とは違い、確たる価値的基盤があり、道徳の判断軸として有効に機能している。そのことにほっとしている自分がいる。それは、目まぐるしく移り変わるこのご時世のなかで、いささか懐古趣味的な感傷なのかもしれないが、私は、そもそも日常の変化を嫌う、感傷的な生活保守主義者なので、それはそれでいいことにしておく。