SNSの集団心理

新型コロナウィルスの騒ぎで、Twitterから距離を置くと書いている人が散見されるが、もっともな判断だ。原発事故後の騒動とうりふたつの騒ぎが繰り返されるのを見て、あたかも混乱時の人間の社会心理がどのように推移するかの再現実験をみているかのような感覚を抱く。人は若干入れ替わってはいるし、事象は異なるのだが、まるで書き割りとキャスティングを誰かが決めているのではないかというくらいに細部におけるまで同じようなことが繰り返されている。「再現実験」というのは皮肉ではなく、おそらく似通った環境において似たような事象が起きれば、人間は集団として同じような行動を繰り返すものなのだろうという気がしている。いま一見、個人の意志であるかのように見えるひとりひとりの言動も、実は集団心理の一部、ないしは社会的に発動された心理メカニズムの一部として機能しているだけなのかもしれない。原発事故後は、私もこの中にいたのだな、と思う。

Twitterを常に見ている人とそうでない人との心理的傾向の違いは、2013年頃からだろうか、ずっと気になっていた。私のまわりには高齢者が多いせいもあるが、Twitterを利用していない、あるいはアカウントを持っていてもほとんど見ていない人が多い。割合的に見れば七割方は利用していないだろうか。(スマホが普及した2014〜2015年頃に一時的に比率があがったが、その後、撤退した人も増えたため、いまはこの程度だろうと思う。) Twitterを利用していない人は、明らかに心理的な安定傾向にある。Twitterをよく利用している人は、心理的に不安定で、不安感と攻撃性が強い場合が多い。要因はいくつも考えられるが、いわゆるクラスタ化による集団心理が強く働き、Twitterをしていない状態の思考と感情のレベルにおいても集団化してしまっていることがまず大きな問題としてあるのだろう。Twitterクラスタ内での思考方法が、内面で規律化されてしまっているため、同じクラスタ内の人と話すと判で押したように同じ反応が返ってくることが多い。また常に起こる炎上や攻撃的なやりとりにさらされ、他者からの反応を気にするため不安感が強く、自己検閲が常態化し、またそこから派生した心理的な余裕のなさが易怒性につながるのかもしれない。怒りが容易に発露される背景には、それを肯定する集団心理が強く影響しているだろう。そしてこの集団心理を背景とした怒りは、憎悪感情によく似ている。少なくとも、Twitterが普及するまでは、成人が公共の場でここまで憎しみをあらわすことは社会的によしとはされてはいなかったのではないだろうか。

いわゆる「カルト」は、社会に対する敵意や悪意、恐怖心をすり込み、個人を社会から切り離すことによって心理状態を支配下に置くことに大きな問題点があるのだが、スマホ(モバイルオンラインサービス)普及以前は、物理的に関係を孤絶することによってしかカルトの手法は成立しなかった。だが、スマホSNSの普及によって、物理的な孤絶なしに、いながらにして、あたかも耳元で常に「あいつらは敵だ」「あなたの味方は私だけだ」「あいつらを憎め」と囁き続けるようなことが可能になってしまった。その憎しみは誰のものなのか。おそらく彼/彼女個人のものではない。目的もない、教祖もいない、ただ情感を共有するだけの集団の怒りと憎しみによって、彼/彼女と社会は隔てられている。SNSの普及によりそうした人びとが増え、やがて「社会」そのものが溶解していくのかもしれない。

また怒りと憎しみがエスカレートしていくのを眺めている。30年後の未来は、私たちに渦巻く怒りと憎しみの正体をどう理解すればいいのか、思案にくれることだろう。30年後にはそうなっていることを願う。