祈りに代えて

 終わりのはじまりのはじまり。
 そんな気配が濃厚に立ちこめる日に、どのような言葉も、口にすればたちまち力を失い、掻き消されてゆく。
 祈りと聖句に代えて、書き付ける。

 わたしは心が痛い、でも、この痛みは、わたしのもの。わたしは痛みからどこにも逃げない。わたしが、すべてを受け入れて、この痛みに感謝しているとはいえない。そのようにいうには、なにかほかのことばが必要です。いまはそれを見つけることができない。わたしは、自分がこんな気持ちでいて、みなからかけ離れていることを知っています。わたしはひとり。苦悩を自分でひきうけ、それを完全に所有し、そこから抜けだす、そこからなにかを持ちだすのです。それはものすごい勝利で、そこにだけ意味があるのです。手ぶらじゃないということに……。そうじゃなかったら、なんのために地獄におりなくちゃならなかったのでしょうか。
  
    「ある子ども時代の物語」 マリヤ・ヴォイチェショノク 作家、57歳
 

 
 「斧が置かれている……。斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるのだよ……。きみは、わしのことばを思いだすときがくるだろう……。きみはこうたずねたね。(ぼくはたずねていた)人間であることは早く終わるものなのか、どの程度もつものなのか、と。答えてやろう。曲げ木の椅子の脚を肛門へ、あるいは陰嚢にキリを、それで人間はいなくなるんだよ。ハハハ……人間はいない……。クズだけだ!ハハハ……。」
  歴史全体が洗いざらい調べられた……。何千もの暴露、何トンもの真実。過去は、ある人びとにとっては長持ちいっぱいの肉と樽いっぱいの血だが、別の人びとにとっては偉大な時代なんです。

     「赤い小旗と斧の微笑」 アンナ・Mの息子

  スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』松本妙子訳


 われわれの時代を生きるすべての人びとに、魂の平安を。