過去とともに生きること

フランス人ドキュメンタリー監督のOlivier Julien が、チェルノブイリ事故から30年、福島第一原子力発電所事故から5年目を迎えた昨年、’Chernobyl-Fukushima: Living With the Legacy’ というドキュメンタリーを制作し、ドイツ・フランス合同のドキュメンタリー専門テレビチャンネルARTEで放送された。
ARTEでドキュメンタリーを放送してもらえれば一流ドキュメンタリー作家、と言われるようなテレビ局である、とは、フランス人の友人の言。
映像は、主として、ベラルーシノルウェー、福島の三つの被災地の住民たちの証言によって構成される。メディアによって喧伝される悲劇の被災地の被害者としてではなく、原子力災害後も、その地に生きる人々のそのままの声として。証言の間には、美しい被災地の風景も挟まれる。飯舘村の菅野クニさんも出演している。撮影時、スケジュールが立て込んでいたせいで、疲労困憊した表情のままのわたしも出ている。(本当は、撮影を断りたかったくらいには疲れていたのだけれど、ずいぶん前から頼まれていたので仕方なく出たら案の定、である。)
核災害の被災地を映像として作品化することの難しさは、放射能被害が可視化できないことにある。劇的なことはなにも起こらない。せいぜいが、持ち込んだ線量計の数値が跳ね上がる程度のことで、他には、爆発した原子力発電所の無残な姿くらいなものだ。あとは、ただ、日常が続くだけ。現実的には、なんということのない日常の細部に小さな変容が入りこみ、日々の調和を損ない、そのことが、しばしば、日々の暮らしをとんでもなく居心地悪くしてしまう、というのが、放射能被害の最たるところではあるけれど、それを映像として捉えることは、ほぼ不可能と言っていい。したがって、なにが起きたかを明らかにするためには、人々の語りによって構成するしかない。Olibier Julienが映像制作にあたって、被災者の証言による構成を企図したのは、たまたまではなく、放射能災害を映像化する上での本質的な難しさに由来するものだろう。
わたしの英語力では、残念ながら全体の内容を詳細に理解するまではいかないが、映像としてのクオリティは非常に高いものであるように思われる。
フランス、ドイツでは既に放送済みだが、日本では、NHKと放送の交渉をしたものの不調に終わったようで、現在のところ放送される目処は立っていない。
フランス、ドイツでの放送後の視聴者の反応は、非常に興味深いものだった。寄せられた感想の多くは、その内容に「戸惑っていた」ことを伝えるものであったという。つまり、視聴者がイメージしている、チェルノブイリ、福島の被災地の状況と、作品の証言があまりにかけ離れていたため、どう受けとめていいのかわからなかったようなのである。
この映像中の被災地の人々は、泣き叫びもしないし、悲劇を訴えたりもしない。静かに、彼らの日常を語る。自分たちが、いかに生活を取り戻そうとしているのか、そして、取り戻したのかを語る。それは、全世界のほとんどの人々がイメージしている、チェルノブイリ、福島の被災地の姿とは重ならない。多くの視聴者は、その戸惑いにそのまま蓋をして、なかったことにしてしまうのだろう。
この視聴者の反応は、放射能災害の心理的側面における難しさを端的に示しているように思える。わたしが、この感想を聞いてすぐに思い起こしたのは、アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』に出てくる、チェルノブイリの被災者のひとつの証言だ。彼女は、おかしい、被害が少なすぎる、あんなに大変な出来事がおこったのに、おかしい、と訴える。被害が少ないことは、彼女にとって幸いであるはずなのに、それが彼女にとっての混乱の源になっている。この一言は、放射能災害の真実を突いている。あれだけの悲劇(と我々の誰もが認識した出来事)が起きたのに、結果として残されたのは、拍子抜けするほど変わらぬ、間延びしているように思えるほどに表面的には変わらない日常だけなのだ。
あの混乱に見合うだけの悲劇的な結末が起こらなければ、おかしいではないか。多くの人々、被災地に暮らす人間も含めて、が、漠然と抱いてしまう感覚なのであろう。こうした人々が抱く印象の元は、広島、長崎における原爆投下が大きく影響していることを、近ごろ、強く感じるようになっている。昨秋、オーストラリアを訪れる機会があり、その際に、立ち寄ったアボリジニの文化研究所で、たまたま、1950年代から60年代にかけてイギリス軍がオーストラリアの砂漠で行った核実験の被害についての展示が行われていた。白人にとっては、不毛の地に過ぎなかった砂漠は、アボリジニの人々にとっては、彼らの生まれ、死んでいく命の源の土地であった。彼らは、核実験が行われたことも知らされず、実験が終わった後に、突然に出て行けといわれ、彼らの土地を追われることになった。現実に、どれほどの被曝を受けたのかはわからない。ただ、神話のようにそれらは伝えられる。
我々はある日、母なる大地を追われた、私は若かった、私たちはどこへ行けばよいかわからなかったけれど、当てもなく彷徨った、父も母も一緒だった、移動の途中で母が死んだ、そのすぐ後に父も死んだ。楽園放逐の神話を聞くようだ、と思いながら、わたしは展示を見ていたが、ただひとつ神話と違うのは、その証言は、明瞭、かつ濃厚な死と破壊のイメージに貫かれていることだ。そうして、ここにも、広島と長崎はあった。展示コーナーの一角には、長崎の原爆投下に使われたファットマンの模型が飾られ、それと同じように、福島第一原子力発電所の事故にも触れてあった。アボリジニにルーツを持つと思われる案内係の女性に、福島から来たのだ、と告げると、彼女は非常に同情的な眼差しをわたしに向けて、わたしに何かを語ったが、残念ながら、わたしの英語力では多くは聞き取れなかった。
もちろん、人間を殺傷するための広島・長崎への原爆投下とその後の核兵器開発は、原子力発電所の事故とは本質的に大きく異なる。一方で、広島・長崎の被害とその後の核兵器開発が全世界にもたらしたインパクトはあまりに強く、原子力発電所の事故における放射能災害においても、そのイメージに絡め取られることなく認識されることは困難となっている。

近しい人たちには、悲観的に過ぎるとお叱りを受けそうではあるが、最近は、こうしたことをつらつらと考え込み、口ごもることが増えている。