忘れられない人

 ほうら、忘れられなくなった。
 だから、止めておけばよかったのよ。ちがう、止められるようにしたかった。
 そう、たとえば、住める区域と住めない区域を明確に区切り、住めない区域の将来像をきちんと共有できる案配にしておけば、わたしは、とっくにこんなこと止めてたの。

 日々から取り残されたような、夜中の静けさのなかで、取り留めもなく考える。
 紫煙を室外に送り出すための換気扇の音を聞きながら、そのうちに、土台、そもそもの前提が無茶なことであったのだろうと、自分の考えそのものがおかしくなって、小さく嗤う。

 人は、忘れる。
 忘れることは、多くの場合、幸いである。忘れられるものは、忘れてしまった方がよい。
 けれど、忘れたくても、忘れられない人たちが、いる。
 たとえば、日々の生活をある日突然奪われてしまった人たちが、その精神的代償を得ることができなかった時、彼らはきっと忘れられない人になる。

 わたしは、本来的に忘れられない性質の人間だ。
 自分が、「忘れられない人」を知ったら、きっと、彼らを忘れることはできなくなる。
 ずっと以前から、それを予期していたから、忘れられるようにしたかった。
 しかし、それは、今にして思えば、いや、最初から思慮の足りない、甘い考えであったのだろう。

 ふと思い起こして、事故の年に、ここから立ち去った知人をネットで検索してみた。
 新しい場所で、彼らの夢を少しずつ繋げていっている様子が綴られていた。
 家族がまたひとり増えた、と書いてあった。
 ここに残れば、彼らの夢をそのまま続けることは難しかったろう。
 彼らは、望んでいた暮らしを、新しい場所で、ふたたびはじめた。
 立ち去る前の、彼らの険しい表情を思い出す。途方に暮れ、悲しみ怒り、そして、世話になった人たちを置いていくことの申し訳なさとの入り混じった表情をしていた。わたしたちは、少しばかり、きつい言葉のやり取りをした。
 彼らは、きっと忘れていない。
 でも、忘れてよいのだ。
 忘れられるのであれば、もう、あんなことは忘れて、そうして、彼らがかつて望んでいた暮らしを続ければいい。
 わたしは、遠い記憶のなかの人に、なる。