百年の夢

 今となると、それは、夢の出来事であったように思われる。
 眼下には小型耕耘機がやっと入る程の狭い棚田が階段状に連なる。急坂にしがみつくように建てられた古い茅葺きの家屋、その僅かな面積の平地を確保するためにも石垣が積んである。石垣の間をすり抜けながらおりた先には、小川とも呼べない小さな流れにサワガニが遊ぶ。見上げる視線のさらに上方を、棚田はどこまでも上っていく。
 空は高い。
 棚田の間の小道を上り、カイヅカイブキの生垣の向こう側にある茅葺き屋を目指す。縁側は開け放たれている。
 広い土間からの上がり框は子供の足には高すぎる。しがみつくようにして暗い室内へのぼる。
 煤けた囲炉裏、見上げる鴨居の上には、神棚と何枚かの写真が見える。
 囲炉裏部屋の脇には、狭い炊事場がある。家事にはあまりに不便と思える欠けたコンクリ製の流しに、蛇口から流れる水は冷たい。かろうじてガスに繋げられたような小さなコンロでの煮炊き。
 夏場、火のない囲炉裏端、薄暗い裸電球の下で取った食事は何を食べたのだろうか。
 食後の五右衛門風呂は火傷をしないように入るだけで精一杯で、熱くて寛ぐどころではなかった。
 夏でも夜は肌寒く、おそらく雨戸を閉め切って寝た。
 昼間の眩い光線と対照的に、屋内は暗闇に包まれている。
 これら幾つかの断片的な記憶を呼び覚ましながら、考える。
 これらは、きっと、本当に夢であったのだ。
 この十年以上の間、祖母が見続けていた、眠りでもなく、覚醒でもなく、途切れ途切れの、ただ時間だけが漂う夢。


 夢の終わりは、読経で締めくくられる。
 かつて彼女の教え子であったという菩提寺の住職の朗々とした声が斎場に響く。
 大概は聞き取れない読経の途中、「善女」という言葉が耳に飛び込んできた。リズムと抑揚でしか捉えていなかった音声の中に意味を持つ言葉は、唐突にあらわれ、鮮やかな色彩を放った。


  ぬかづけばわれも善女や仏生會(久女)


 善女という言葉から思い起こされた杉田久女の句が、なぜか祖母の姿と重なる。百二歳で生の終焉を迎えた祖母が、まだ八十歳頃、彼女に認知症の症状が出る前の姿で、仏前にぬかづいている。現実にはそんな姿を目にした事はないはずだけれど、明治女がぬかづく佇まいは、想像の中だけでも実に似つかわしく感じられた。身長が百五十センチにも満たない小さな体で背を丸め、香の立ち上る寺で、口を一文字に固く結んだ頑固そうな表情で、祈りを捧げている。いったい、誰のために、何のために。想像の中の祖母は応えない。


 嫁いできてからの祖母が暮らした山間の村の来歴を、父祖の事蹟を、かろうじてその末である私は、まったくと言っていいほど知らない。薄れがちな遠い記憶をたどると、墓誌には、せいぜい三、四代前までの名しか記されていなかったように思う。どんなに遡っても、明治をのぼる事はないだろう。戦前は製材所を経営し、羽振りがよい時期もあったという。祖父の長兄が製材所の機械に巻き込まれ、語り伝えられるほどの痛ましい最期を迎え、京都や満州を祖母と共に点々としていた次男の祖父が郷里へ戻る事となった。当時は、学校までの道中、一歩もよその敷地を踏まずに通えたと言うほどの山林を所有し、村祭りのお神楽見物には特別席がしつらえてあったと言うが、おそらく戦争前の一時的な活況であっただろう。その地での暮らし向きが決して豊かではなかった事は、近隣に同姓の親族が一軒もない事からも察せられる。あのような山中に、家督を相続する以外の子が分家して食べていけるほどの食料生産、あるいは何らかの産業が可能であったとは思えない。
 「ここから北へこえた伊予の国はあまりにも人が多く住み、何彼にものの不足しているところでございました」。宮本常一『忘れられた日本人』の中で、土佐の人が語る言葉だ。父祖は、きっと住みよい伊予の平野から溢れだした者達のひとりであったのだろう。器から水がこぼれるように、風に種子が飛ばされるように、人も流れ出し、僅かな起伏を必然の流路として、ただ流れていく。風に飛ばされた種子がわずかな窪地へ着地し、そこを終生の地として根を下ろすように、そこに僅かでも暮らしていけるだけの可能性があるならば、人も暮らしの場を築き上げようとする。伐木し、開墾し、地面から掘り出される石をひとつまたひとつと積み上げる。手で持つことが苦にならない程度の大きさの石だ。果てもなく続く斜面を、上へ上へと拓き、長年の労苦の果てに、やがてその作業は、景観を生み出す。辛い作業の合間に手を止め、見上げた景色に心ひらかれる事もあったはずだ。そう感じるのは、父祖の手になるその景観があまりに美しいからだ。不定型な曲線を描く石積みは、一段一段にしなやかに稲を育み、季節に応じた色を湛える。風が通れば、光は揺らぎ、葉擦れの音に身体ごと包まれる。それを父祖は、楽しみとも、美しさとも呼ばなかったかも知れない。そんな言葉は、ほんの僅かでも暮らしから離れた位置からしか発せられない。そうして作られた田も、水源に近い場の常である水の冷たさに豊かな稔りをもたらすことはなかった。やがて、子孫はその地を離れ、今ではもう石積みも見えぬほど葛が繁茂する田も目立つ。
 この斜面にかじりつくようにして生活するには、今の時代はあまりに豊かで、途方もない苦難に耐え抜いたであろう父祖の末裔である私たちの意思は、あまりに弱い。


 明治生まれの祖母は、脆弱な末裔とは違い、意思の強い人であった。彼女の事を知る親しいものは、土地の言葉で「ガイ」な人であった、と言う。終戦後、南方戦線から帰国した祖父は、戦友の遺族の生活を助けるための遺族会の活動に没頭し、家庭に一銭も入れる事はなく、やがて遠い縁戚にあたる戦友の未亡人と親しい仲になった。その人は、祖母とはまったく反対の、やさしく穏やかな性格の人であったという。祖母は教員として勤める傍ら、ほぼひとりで田畑を耕し、牛の世話をし、三人の子供を育て上げた。後に、祖父が死病を患い、入院する事になった時、付き添う祖母の氷のように冷たい祖父への対応に、見舞いに行った伯母は身が縮こまる思いがしたと言う。一方で、祖母は嬉しそうに見えた、とも伯母は言う。祖母の気性の激しさは、認知症を患った後でも、残された。骨折で入院した病院で、いつまでも引かぬ痛みに、医師を叱りつけ、院内の有名人となった。機嫌の良い時には、よく通る声で歌うように「サンキュー、サンキュー、ベリマッチ」と笑顔を浮かべる事もあった。火のような気性の頑固さ、一本芯の通った性格、悪戯っ子のような戯け、私が祖母について知っているのは、この程度しかない。


 祖父亡き後、あの古い茅葺屋は火災で焼失した。それからの祖母の人生は、流転の暮らしであった、と言ってもいい。父祖が辿ったのとはまったく反対の、礎を少しずつ失っていくだけの長い道を続けてきた。そして、流れるだけの祖母の時間が終末を迎えた後も、彼女の生を受け継ぐ者らは、流れる事を止めない。
 今は墓所と幾許かの山林だけが残されるあの地は、やがて夢のようにしか思い出せなくなるだろう。
 そして、その夢さえも、じきに忘れ去られる。


 



※タイトルは、ドゥシャン・ハナックのドキュメンタリー映画『百年の夢』から借りた。