葬送の夏

 五年前、祖母が亡くなった夏も炎暑だった。自家用車から降りて葬祭場へ入るまでの寸秒で、喪服は重たく肌に張り付いた。季節を違える程に冷房のいれられた斎場で、瞬く間に汗は冷えた。
 祖母の病が発覚し亡くなるまでの二年間、病身を押して看護をした母は、葬儀には出なかった。暑さと自身の体調を慮ったのだろう。郷里から離れた場所だったこともあり、葬儀に参列したのは、ごく近い身内だけだった。母の弟である叔父が喪主を務め、通りいっぺんの味気ない挨拶をし、祖母は火葬場で骨になった。親に不義理を働いたこの弟を、母は生涯、許さなかった。そして、祖母はそんな叔父をゆるし続けた。
 五年後の今年、あの夏と同じように記録的猛暑が伝えられる中、同じ斎場の同じ会場で、母の葬儀は営まれた。参列者は想像以上に多く、会場の外側にも椅子が並べられた。僧侶の読経が止んですぐに始まった友人の弔辞では、イザヤ書から言葉が引かれ、神の御許へ召される友人への思いが述べられた。どこかちぐはぐな葬儀に、多くの友人、知人が、母のために集い、涙した。斎場の横にあるショッピングセンターからは、突き刺す日差しに不釣り合いな黒色の集団は、そこが紛うことなく喪の場所であると誇示しているようにも見えたろう。
 田舎の旧家の本家筋に生まれた母は、幼い頃病弱だったせいもあってか、年を経て後もどこかお嬢様気分が抜けない人だった。後年、夫婦喧嘩の時に、「子供の頃、私が挨拶をしなくても向こうから挨拶をされないことはなかった」と宣ったと父は笑ったが、そんな気分がいつまでも残っていた。歯に衣着せぬ、無礼な物言いや態度を、無邪気で愛嬌のある性分でゆるされてきた人であった、と思う。通夜の席で、母の学生時代を知る友人が、「身体も小さかったから、妖精みたいに可愛い人だった」と言った。私は、そんな母を無条件に愛していたわけではない。いつしか、親子関係が逆転し、私が精神的な庇護者となることで、ようやく親子関係は穏やかなものとして成立した。その期間は、長くはなかった。

 生まれたばかりの母に、心臓に先天的な欠陥があることは、早くに分かっていた。この子は二十歳まで生きられないと言われていたと、祖母からは何度も聞いた。母が命を繋げたのは、医療の進歩にかろうじて間に合ったからだ。二十歳を過ぎた頃、当時は最先端であった心臓外科手術を受け、健康な人となんら変わらぬ生活を送れるようになった。私が成長過程にある期間、母がわずかでも健康に問題を抱えていると感じる事さえなかった。風邪もほとんどひかない人だった。唯一、子供の頃運動をしたことがないため、カナヅチであるとは言っていた。そして、母が健康であったのは、子育てをしている二十数年間の期間だけだった。
 子供達がひととおり成人を迎えた頃、母は死病となる原因不明の疾患を発症した。若い頃の心臓疾患とはまったく関係ないと考えられる。徐々に呼吸機能が蝕まれていく病であった。
 余命が一、二年であると言われれば動転するが、十年と言われれば準備には十分な期間である、と言う言葉を、昔、聞いたことがある。だが、それは嘘だ。自分の中の身体機能が徐々に蝕まれ、それがついには自身の生命を奪うことを感じながら、日々を繋いでいく現実は、そのような夢想的な言葉では説明できない。同病の年若い友人達の訃報を繰り返し目にしながら、自分の時間を続けていくことに、どれだけの精神力が必要とされるのか、私にもわからない。母は病とともに十五年を生きた。幸いなことに、その大半の時間は、穏やかに過ごすことが出来た。母の死に際して、少なくない病気仲間が悼んでくれた。やがて自らに来たるものと明確に意識している彼女たちの弔意は、どこまでも真摯で思い遣りに満ちていた。母もまたこうして友人達を見送ってきたのだろう。
 容態が悪化し、苦痛が耐えがたいものとなった時、鎮静剤を用いたセデーションが行われた。長年にわたる病の中で、薬剤に対する耐性ができていたのか、小柄な母に対して医師も驚く程多量の鎮静剤を用いなければ、苦痛を和らげることができなかった。余程大柄な人であっても頬を叩いても目を覚まさないと医師が言うほどの鎮静剤を投与されながら、母は時折目を覚まし、苦痛を訴えた。その度に、手を握り、水を口に含ませ、長く洗っていない髪を櫛で梳いた。少しは気が紛れたのか、病人はかすかに頷いた。それでも苦痛がひかない母に、看護師さんを呼び、鎮静剤を増量し、眠りにつかせた。母は、五年前、死の床にいた祖母とよく似た顔をしていた。臨終を迎える前に、このような表情になるのだとすれば、兄妹のうち誰よりも母に似ていると言われる私もまた今際の際には、このような表情をするのだろう、と思った。
 死の間際、血中の二酸化炭素濃度が上昇すると、人は、幸せな幻影を見るのだという。それが、長い間呼吸苦に悩まされた人間へ、神が与える最初で最後の恩寵だ。母が最後に見た光景がどのようなものであったか知る術はないが、光と美しさと慈愛に満ちたものであると、信じる。