紅葉の頃

 紅葉の頃、現場での一服休みの時のことだ。
 手伝いの若い人が話した。
 彼が掛け持ちしている現場は、山間の渓流沿いにある。
 車両も入らない細い橋を渡った先、どうどうと絶え間なく響く滝の音にさらされ、滝飛沫を浴びながら、いちにち作業をするのだと言う。
 既に寒さが厳しくなり始めた時期、朝晩の冷え込みは街場の比ではない。その上、重機を持ち込めない現場での作業は、楽な仕事とはとても言い難い。
 だけど、と彼は、少し間を空けて言った。


 今、モミジはすごくキレイですよ。
 すべての色があります。


 彼に来て貰っている現場は、車の往来が絶えない街中の交差点そばにあったが、彼のその言葉を聞いて、眼前にすべての色が入り交じった山の光景が広がった。
 固い地盤にスコップを突き立て、不安定な足場を一輪車で砂利を運び込む。鉄筋、セメントにコンクリートブロック、衣服も道具も土とセメントに汚れている。固く重く冷たい資材と華やかな色彩の環境とのアンバランスさに目眩がするようだった。
 私も以前、その現場付近を紅葉の頃に通ったことがある。
 冬至に向かって衰えゆく日差しは影を斜めにし、紅葉はその光を受けながら静かに葉を揺らしていた。澄み切った渓流は、木々の色を映し、綾に錦に色を織りなす。ときおり水しぶきと一緒に光が跳ねる。そして、次の瞬間には輝きは消え、また色彩がたゆたうように流れているのだった。
 色彩は幾重にも塗り重ねられ、それでいてそれぞれの色は濁りなく、明るく澄んでいる。紅葉を単色の赤や黄色であると思ってしまうのは何故なのだろう。彼が言ったように、そこでは全ての色が明滅し、ひそやかに、光のあわいを息づいている。
 色彩を全身に受けながら作業し、途中ふと目を上げて光を呼吸する。それは、この環境で働く人間の特権である。だが、その豊かさに気づく人は少ない。


 今、目の前に、照葉樹林と落葉広葉樹林を色分けして描いた日本地図がある。ちょうど日本列島の中心の内陸部を包むように、西側から照葉樹林帯が広がっている。よく見れば、大きく口を開けた鰐か何かの生き物が、落葉広葉樹林を呑み込もうとしているようにも見える。あるいは、落葉広葉樹林の方が、水流のごとく鰐の内部に陥入しようとしているのかもしれない。
 この地は、ちょうど照葉樹林と落葉広葉樹林の境目に位置する。
 季節毎に繰り広げられる景は、照葉樹林の地域に育った人には、おそらく想像し難いだろう。
 季節の移ろいと太陽高度の変化にしたがって、山々は光を蓄え、さまざまに色を放つのだ。山そのものが色に染まり、色に揺れる。そんな光景が惜しげもなく、毎年毎年、繰り広げられる。記憶の遙か向こうの昔から、延々と繰り返されてきた。
 いくたびも人は山へ足を踏み入れ、はらはらと舞い降りてくる紅葉を浴びた。人にも獣にも同じように、落ち葉は降り積もる。その上を歩き、あるいは斃れた者の上へ降り積もり、降り重なり、やがては何事もなかったかのように季節は移ろう。
 それはたとえば、化生の者がいきづく舞台模様と一続きだ。
 なうなう、そこなおひと、と呼ばわれ、振り返れば、あでやかな打ち掛けを纏った上臈が手招きをする。
 勧められるままに酒杯を傾ければ、頭上で梢は波打つようにたゆたい、風に踊りながら杯に一葉、また一葉と降りそそぐ。
 促されるように、一差し、と上臈は静かに舞い始めた。ゆらゆらと光は動き、また揺れる。上臈の漆黒の長い髪に楓の葉がひとひらひとひらと舞い落ちた。まばゆいのは光の角度だろうか。一年かけてたくわえてきた光をいま、木々はいっせいに放とうとしている。舞の動きとともに、光は徐々に華やかに明度を増す。光彩が目にささるようだ。目を開けていられない、と思った瞬間、ざあっと強い風が吹き、視界いちめん極彩色で塗りこめられた。
 目を開ければ、上臈はおらず、ただ色だけが浅く深く光に揺らいでいる。


 夢見心地で、眼下を見下ろせば、とおく滝が飛沫を上げながら落ちてゆく。
 滝のふもとでは、若い人がスコップを手に地面と格闘しているのが小さく見える。一輪車に満載された残土を運ぶ彼らの上にも、紅葉は降りそそぐ。川面に木々の色取りを映した光は、彼らも同じように映す。金銀模様綾錦に色を取りなして、水煙を浴びた肌もまた美しく染まる。
 11月も半ばを過ぎた。今晩は霜が降る。山々もまた眠りにつく。

2010年04月22日(木)