『海鳴り星』

 正月に帰省したときに、祖母が一番好きだという今井杏太郎の句集『海鳴り星』を借りてきた。
 句を追っていくうち、火事で焼けてしまった祖父母の家の日当たりの良い縁側で、ふたりが並んでおだやかに備前焼を眺めている光景が浮かんできた。祖母はいつも仕事に追われていたし、祖父もそんなにやわらかな人ではなかったし、そもそも縁側にはいつも何かしらたくさんの物が山と積まれていて、物置のような状態だったから、私が現実に目にしたはずがない。けれど、なぜだかそんな光景があったような気がする。

 正月に留守宅になっている祖母の家に帰省した。久々に帰宅できた祖母は始終上機嫌だった。色々な話をした。祖父が亡くなる直前、読経のテープをかけて、体力の弱った自分の代わりに復誦してくれるよう、繰り返し祖母に頼んでいたことも聞いた。
 火事で焼ける前の家には、おびただしい備前焼と共に、何体かの仏像もあった。そのうちの一番大きな青銅製のものは、出火場所の部屋にあったにも関わらず、唯一形を残している。
 私が幼い頃から、祖父母は朝晩仏像に向かって読経のテープをかけ、小声で経を上げていた。夫が聞いてみたいというので、久々にテープをかけてみた。テープはかなりすり減って、最初は音声がおかしいようだったけれど、昔通りの音が流れてきた。
 祖父は読経のリズムや声が好きだったようだ。子供心に、単に骨董趣味が高じて仏像まで集め始めたと思っていたのだが、そうではないという話を祖母から聞いた。
 生活に余裕が出てまだ体力もあった頃、祖父は展覧会をよく見に行っていた。あるとき出かけた仏像の写真展で、祖父は展示してあった仏像の写真に囲まれ、「なんとも言えない気持ち」になったのだという。発心を起こした、とでもいうのだろうか。それから、仏像を買い求めたのだという。
 祖母の語る祖父は、私の知っている祖父とも、両親の語る祖父とも大きく違っていた。そして、たぶん、生前の祖父自身とも微妙にずれている。けれど、そのずれが、プリズムのように作用して、私に現実には起こりえなかったあんなおだやかな幻影を見せたのだろう。
 読経のテープに合わせて、私も経文を唱えてみた。幼い頃、染みついたリズム。歌うように、時折、小声で笑いながら。死者のための経はなく、経文はすべて生者のためのものだ、私はそう思っている。では、あのとき私は、一体誰のために唱えたのだろう。あれは、祖父のためだったのだろうか。よくわからない。けれど、お経が終わったとき、祖母の目にはうっすら涙が浮かんでいたように見えた。だから、そんなことはどうでもよかったのだろう。死者のためでも、生者のためでもなく、何かを裁断することなくゆるゆると淀みなく流れてゆくリズムは、それだけで大切なもののように思えた。

 家が焼失する前、離婚した叔父が戻ってくる前は、毎夕、祖父母とシンちゃんと三人で散歩に出かけていた。
 シンちゃんは、祖父母の長子で、知的障害がある。私にとっては伯父にあたるが、一度も「おじさん」と呼んだことはない。皆が呼ぶように「シンちゃん」と呼びならわしていた。
 シンちゃんはいつも「演説」しながら歩いていた。発音が不明瞭なので、喋っている内容はほとんど聞き取れなかったが、何かについて「演説」をしているつもりらしかった。糸巻きの芯をメガホン代わりにしての「演説」はシンちゃんが一人散歩の時にも行う常のことだった。
 家のすぐ側にある川の土手道を、長い階段のある神社を、昔から腰の曲がっていたシンちゃんと祖父母と、ゆるゆると「演説」を従えながら歩いていた。三人が歩く姿は、一枚の風景画のようだ。おだやかな川原と光の差し込まない神社の森と、広がる水田と。
 けれど、よくよく考えれば、あの寒村はそんなに美しいものであったか訝しい。いつからか私の記憶の寒村には、美しさのフィルターがかけられている。思い出の場所は現実の過去よりもはるかに光に溢れている。
 私の記憶に光を与え、美しいものに染め変えたのは、何だったのだろう。

 地べたを暮らし暮らしてゆく中で、まるで磁場が変わるように、人や出来事を美しく染め変えることがある。
 祖母は、今回の帰省でよく喋り、よく笑った。
 祖父のことも、よく喋った。
 今井杏太郎の『海鳴り星』を読んだとき、祖父母とシンちゃんの暮らし、寒村での貧しい生活、生活に追われる日々、それらがすべて『海鳴り星』のなんとも懐かしい(私の現実の過去には、懐かしむべき生活はないにも関わらず)世界に抱かれた。そして、それは祖母の語りと重なり合い、おそらく私の見た過去の現実をより深く、美しいものへ染め上げたのだ。
 祖父も、あの寒村も、そこでの祖父母の貧しい生活も、「祝福」されたのだと思った。
 祖母は、自分の人生はあまり良い人生ではなかったけれど、と笑って言った。後どれくらい生きられるか分からないけれど、楽しくすごそうと思っているのだと。
 そんな祖母の笑顔に、かつて見たTV番組の老婆の姿が重なった。戦死した恋人のことを思い続け、戦後結婚した職人の夫が生きている時に、かつての恋人へのラブレターを書いた老婆。夫を亡くした後、ふたりで暮らしたボロ屋が壊される時にあふれさせた涙を、今も鮮明に覚えている。あの涙も、多分、同じような種類の、現実をより深いものへと変質させる力を持った「贖い」の涙だった。戦死した恋人も、互いに理解者になり得ないまま辛い生活を共にした夫も、困難な日々も、彼女自身の業の深さも、あのときの嗚咽によって「祝福」されたのだ。
 たぶん、そんな祝福は、一瞬の出来事に過ぎないのだろう。
 またつながる日々の中にすぐに埋もれ、忘れ去られてゆく出来事だ。
 けれど、私にとっては、まぎれもない真実だ。真実はいつだって、魂の深さの問題でしかない。
 世界は無数の断絶を孕み、現実は淀みなく続いているようで、磁場は幾度となく変容する。その断絶こそが「祝福」なのだ。それは、高邁な思想や普遍的な真理や、輝かしい表現作品によってなされるのではなく、暮らしの中で何気なく、ふとした偶然のきっかけで起こっている。
 そのことはわかる人にしかわからなくていい。
 日々の暮らし、日々の息づかい、その中にある息を呑むような深さ、美しさ。
 幻のように消えてゆくそれらを見出すとき、初めて現実は私にとって親しいものとなる。

 (2004/1/19)