時代の終わりによせて

 私が幼い頃、散歩の道すがら、祖母が少し離れたところに見える小高い丘状の山を指さしながら言ったことがある。ご先祖様はな、あそこにあったお城の御家老様じゃったんだけどな、悪い家来がおってな、追い出されてしまって、ここに住むようになったんじゃ。祖母がまるで見てきたように語るので、幼い私は、その出来事は「おじいちゃんのお父さん」か、「おじいちゃんのおじいちゃん」の時代におきたことなのだろう、と長く思っていた。子どもにとって、「おじいちゃんのおじいちゃん」は、自分に手触り出来る限りの、無限に過去に遡る事を意味する。それは、言うなれば、歴史化される時代と現在とのはざまであり、自分にとって、親しみのある手触りの出来る過去である。そして、現代のような歴史研究が進む前の時代にとって、大多数の人間にとって、歴史とはそのようなものであっただろう。歴史とは、自分たちに直接つながる親しきものであり、それ以前の過去は、神話であり、伝説/言い伝えの範疇にまとめられてしまう。
 私の場合も現代の歴史教育を受け、「おじいちゃんのおじいちゃん」が御家老様であったというのは、時代的にあり得ないことに気がつくこととなった。何かの折に調べてみたところ、祖母の話は、戦国時代の前半、つまりは室町末期の事であることがわかった。在地豪族であった一族が、その地に住み着いたのはいつ頃からなのかは定かでないが(好事家の説に寄れば、平安末であるという)、ある程度の勢力をなし、やがて城の主となり、戦国の世でより強大な勢力の軍門に下った後、家老として遇せられ、やがては別の勢力に追われ、在地の大庄屋として長くその地に居を構えた、というのが一通りの歴史であったようだ。

 母の実家の隣には、祖父の生家である「本家」の古い建物があった。江戸時代後期か明治/大正年間に建てられたのかしたのであろうその家屋は、まるで時代の流れが止まったかのように佇んでいた。入ってすぐに広い土間のある建物の中は薄暗く、大黒柱と上がり框が黒光りしていた。黒く艶のある木材の表面は、子供心にも美しいと感じられた。南側の濡れ縁に面した座敷にだけは、明るく光が差し込んだ。座敷は開け放たれていることもあったが、たいていは飴色の木戸が閉ざされたままになっていた。奥に入るに従って、内側の部屋は暗くなる。建物の中央部の部屋では、真っ暗闇の中に、物が山と積まれており、とても整理されているとは思われなかった。その部屋を抜けた北側には、昔、お殿様がこの地を訪れた際に入浴した浴室がそのままに残してあるのだ、と伝え聞いたことがある。だが、実際に目にすることはなかった。おそらく、そこも長く手入れもされておらず、見せられる状態にはなかったのだろう。
 祖母と母は、大伯父の代になってから、家屋の手入れが悪くなったと不満を口にした。地元の教育委員会が調査に入った時に、家屋は、大伯父が行った、母曰くの「滅茶苦茶な改築」のせいで、文化財としての価値がないと評価されたという。それさえなければ、景気が良かった頃に、何らかの保存指定を受けられたかも知れないのに、と悔しがった。

 母屋の横には、今は農機具置き場になっているが、馬か牛を飼っていたという二階建ての家屋があり、母が子どもの頃には、二階には作業を手伝う下働きの人が住み込んでいたという。収穫の時期には、広い前庭に収穫物が積まれ、作業する人々が多く出入りしたのだという。私が記憶するのは、まだ少しは若さが残る大伯父や大伯母が農作業を行う風景だ。私が訪れる時期は、いつもきまって干瓢の時期だった。輪切りにした大きな瓜の中央に棒を指し、くるくる回しながら、帯状に瓜を加工していく。帯状となった瓜は、熱い日差しの中、筵の上に干されていた。どこか湿っぽい匂いのする干瓢は、子どもの好む食べ物ではなく、なぜこのような奇妙な食べ物を大伯父達は、毎年毎年作り続けているのか、不思議に思っていた。だが、作り続けることに、特段の理由など必要なかったのだ。いつ頃からかも定かでない昔から毎年していたことを、同じように反復していただけだったのだろう。そして、その記憶だけで、作り続ける理由としては、必要充分だったのだ。永遠に続くかと思われた季節の行事も、やがて、大伯父達が年を取ると、見ることもなくなった。

 周囲を土塀に囲われた門構えの屋敷は、一族の誇りを象徴する建物であった。親戚の人々が、「本家」と口にする時の、どことなく誇らしい口ぶりを覚えている。だが、若い世代は皆出て行ったきり戻ってこず、やがて広い建物には、齢九十九歳になる大伯父がひとりきりとなった。心配する周囲をよそに、自分は古い大木が静かに朽ちていくように、この家と共に朽ちていくのだ、と頑張っていたが、日々の家事食事もままならない中、そうも言っていられなくなり、介護施設の厄介になることになった。今は、病を得て戻ってきた従兄弟伯父がひとり暮らすきりだ。都会で公務員をしている「本家」の跡取りであるもう一人の従兄弟伯父は、祖父の三周忌の時に、「あの家はどうにもなりませんわ。」「取り壊すしかありませんやろ。」と苦笑いしながら言った。そして、長く大した維持管理をされていない建物は、ただ取り壊される日が来るのを待っている。
 大伯父が亡くなれば、古い家は、じきに取り壊されるのだろう。そして、古さだけが誇りであった一族の歴史も終わる。私が、祖母がそうしたように、下の世代に、お城に住んでいたというご先祖様の話や、お殿様の入ったという風呂場の話をする機会は、決して巡ってこない。私がその話を知る、最期の世代になるのだろう。そして、名実ともに一族の当主であったのも、大伯父が最期の代だ。中世末に城を下りてから数百年にわたって、同じように、あるいは少しずつ変化しながらも繰り返されてきた日々は、今後、どれだけ時代を経ようとも受け継がれることはない。歴史書に残るような華々しい行跡があるわけではなかったが、ひそやかに、しかし確かに続いてきた歴史が終焉を迎えようとしている。その事にも、そしてそれが意味する事にも、誰も気づくまい。そういう意味で、大伯父の言葉はきっと正しいのだ。今の時代、どこにでも、よくある話、そんな無関心の静寂に包まれながら、黙って、歴史は朽ちていく。歴史は自然に終わるのではなく、我々が終わらせたのだ。歴史の終端を担う位置にある私が、朽ち果てていく様を見届けたいと願うのは、ただの懐古趣味からではない。それが、現在の我々の姿を、如実に映し出しているからだ。そんな鏡を持てるこの時代は、まだ幸いである。そうした鏡すら持たない次の世代は、どのような時代を生きることになるのだろうか。