サブあんにゃとサヨンバ

 この集落に引っ越してくるなら、まずは組長さんに挨拶を、と役場の人に連れられて訪ねたのはサブあんにゃの家だった。「オレは、ヨソモノなんか大嫌いだ」と公言して憚らないサブあんにゃは、私たちの頭のてっぺんから足の先までマジマジと見渡して、ニコリともせずに言った。「ここに引っ越してくるなら、組には入ってもらわないと困る。」 そして、後はムスッとした顔つきのまま、まったく言葉を発しなかった。横にいたサヨンバは、私たちの職業が植木屋で、下の町まで通って仕事しようと思っています、と言うと、首をゆっくり横に振って一言、「容易でねぇ」とだけ言うと、顔を横斜め下に向けたきりだった。そんな感じで、サブあんにゃとサヨンバとの出会いは始まった。
 後日、引っ越し後の挨拶に行くと、相も変わらずニコリともしないでサブあんにゃは、組に入るなら組内の人を全員家に招いて一席設けろ、と言う。よくは分からないが、それがしきたりだというのなら仕方がない、と乏しい資金の中から、村の仕出し屋に料理を頼み、酒を買い込み、用意を調えた。座布団やテーブルはあるのか、とサブあんにゃが訊くから、ありません、と応えると、うちのを貸してやるから持って行け、とよく手入れされたフカフカの座布団と、会議用の座卓を軽トラに乗せて貸してくれた。今でも葬式を自宅で執り行う田舎の家では、冠婚葬祭の道具一式が揃えてあるようだった。
 当日、時間より十五分前に、最初にやってきたのは、サブあんにゃだった。入るなり、家の中をぐるりと見回し、こんな風にしたのか、と呟くと、どっかと座布団にあぐらをかき、口も聞かずに、目を大きく見開いて、あたりを見渡していた。集合時間よりかっきり五分前になると、次々と組の人たちが訪れてきた。誰かが「組からの差し入れだ」と、ビールを2ケースと日本酒を持ってきて、私たちが用意した料理には、あまり手を付けなかった。今から考えると、遠慮して、皆、自宅で食事を済ませてきたのだろう。いったいどんな会話が繰り広げられたのかは覚えていないが、この集落は、サブあんにゃとアキオさんのふたりの長老がいて、それ以外は四〇代の比較的若い世代が多く、仲の良い組内であるらしい事は感じられた。八時頃になると、示し合わせたように、皆、酔っぱらい顔で挨拶をして帰って行った。
 翌日、お礼の一升瓶と菓子折を持って、座布団と座卓を返しに行くと、心なしかサブあんにゃの表情が和らいでいるようだった。取れたばかりの畑の野菜を持って帰れ、と言ってビニール袋に入れて持たせてくれた。中の野菜があまりに見事にまるまるとしているので、夫が「さすが組長さんですねぇ。こんな立派な野菜、スーパーじゃみたことありません」と言うと、「相好を崩す」という表情はまさにこのことを言うのだろう、これまでの顰め面が嘘のように破顔し、「孫ら来たときに持たせてやってもいつも大喜びして帰るんだ」、と声を立てて笑った。それ以来、サブあんにゃと会話するときには、必ず褒め言葉をどこかしらに入れるようにした。すると、決まって、あんにゃは、これ以上はないというくらい、相好を崩して笑うのだった。
 この組での一番難しい人は、サブあんにゃであるようだったので、分からない事は、組長である事を幸いに、まずサブあんにゃに訊ねる事にした。ちょくちょく顔を出しているうちに、サヨンバともお茶を飲むようになった。お茶受けに出てくるサヨンバの手料理は、抜群に美味かった。出てくるのは、このあたりでお決まりの漬け物や、季節の野菜の煮物や炒め物で、取り立てて珍しいものではない。だが、いったい何が違うのだろう、というほど美味さが違っていた。サヨンバの料理目当てに、サブあんにゃの家を訪ねるのは、私の楽しみになった。
 サブあんにゃの家は、親の代にこの集落に開拓で入った。当時は、森ばかりで、田畑もなかった。木を伐り、炭を焼き、空いた土地を耕し、畑にした。だが、水の関係から、畑はできても、田んぼだけはなかなか作る事が出来なかった。自給自足の暮らしの中で、どうしても米を食べたかったサブあんにゃの兄は、脇を流れる小さな水路の流れを変えて、田んぼに入れる水を確保する事にした。空いた時間を見つけては、手作業で、夜も遅くまで、大きく蛇行した流れを真っ直ぐに変わるよう、地面と格闘し続けた。それは大変な作業だったという。そして、流れがまっすぐに変わって間もなく、彼は死んでしまった。「今なら、重機があるからすぐでしょうけど、手作業では大変だったでしょうねぇ」と相づちを打った私に、サヨンバはお茶を飲みながら「そうよ、人生無駄にしちまったわ」と、実につまらなさそうに応えた。今でも、その田んぼでは、サブあんにゃとサヨンバが米を作っている。だが、寒冷地であるこの地では、味の落ちる極早稲種しか生育しない。サヨンバは、うちは今は酒米しか作ってない、米は酒屋に売って、自分らは会津の美味い米を買って食べている、と言ってイタズラっぽく笑った。

 ある日、おゲンさんのうちでお茶を飲んでいる時にサブあんにゃの話になった。あんにゃのところには顔を出しているのかい、と聞かれたので、たまに行って、野菜をもらったりしています、とても立派な野菜ですね、とお礼を言っています、とこたえると、おゲンさんは、うんうんと頷き、それでいいんだ、と言った。それから、おゲンさんの話が始まった。半分以上は聞き取れなかったのだけれど、まだずっと若い頃、おゲンさんとサブあんにゃはケンカになったことがあるようだった。それは、おゲンさんから見れば、ずいぶんと理不尽で、非はサブあんにゃ側にあるのだけれど、向こうが絶対に折れない事は、性格的に明らかだった。長い間、口も聞かない状態が続いていたが、おゲンさんは思い立って一升瓶を持って、あんにゃの元を訊ねた。そして、一升瓶を玄関先にドンと置いて、切り出した。「あんにゃ、わかった。これで、手打ちにしよう」 たぶん、そんなことを言ったらしい。その時の話をするおゲンさんの様子は、頬が紅潮し、コタツの上に一升瓶を持った手の形もそのままに、まさにその時を再現しているかのようだった。とにもかくにも、おゲンさんが頭を下げる形で、一件は収まったらしいが、今でもおゲンさんには悔しい思いが残っているようだった。
 その話のついでに、おゲンさんはサヨンバとサブあんにゃのなれそめを教えてくれた。サヨンバは、元々、同じ村内でももう少し低地にある農家の生まれだと言う。低地側の集落は歴史も古く、開拓部落であるこのあたりの集落は、村内でも低く見られている。あるとき、サヨンバを見初めたサブあんにゃは、誰にも断りもなくサヨンバをさらうように連れて帰り、親にも言わず、自宅の納屋に隠しておいたのだという。もちろん、サヨンバの家では、大騒ぎだ。しばらくしてから、事が露見しても、サブあんにゃは、詫びようともしない。間に入った村の有力者はずいぶんと苦労をしたそうだ。そんな昔があった事など嘘のように、サヨンバとサブあんにゃはいつも二人で行動していた。サブあんにゃの運転する軽トラの横には、必ずサヨンバが座っていた。

 サブあんにゃは、古い農家屋に、サヨンバと二人暮らしだった。座敷の床はきもち斜めになっていたが、いつも塵一つなく、調えられていた。息子一家は、下にある街の会社に勤め、家を構えている、と言う話だった。座敷の鴨居には、息子が建てたという真新しい住宅の航空写真が飾ってあった。サブあんにゃの家のすぐ下には、甥であるマサミさん一家が住んでいた。あるとき、マサミさんの家で、お嫁さんのトミさんと話をしていたときだった。「サブあんにゃがいけないんだよ。」 そう言って、トミさんは話を続けた。「昼ご飯だってなんだって、十二時っていったら、十二時のサイレンかっきりに食卓に並んでないと機嫌悪いんだと。」「お嫁さん、かわいそうにねぇ。」 数年前まで、息子さん一家は同居していた様だった。今は、下の街に住む息子さんだが、組の草刈りなどの行事の時には、毎回欠かさず参加していた。だから、私たちも顔見知りであった。とある夜のことだった。うちの玄関前で声をかける人がいる。出てみると、一升瓶を持ったサブあんにゃの息子だった。何事かと思ったら、彼がしゃべり出した。自分たちはこれから先もずっと下の街で暮らす事になった。親父達のこと、よろしく頼みます。いつもの集まりでは見た事のない硬い表情でそう言い、一升瓶を差し出した。組内をすべて挨拶して回っているようだった。
 私たちが組から引っ越すときも、一軒ずつ挨拶をして回った。挨拶をしながら、その時の、彼の思い詰めた表情を思い出した。私たちが挨拶をしたとき、サブあんにゃは、そうか、と一言だけだった。サヨンバは何も言わなかった。「お茶飲んでいきな」とだけ言い、蕗の煮物を出してくれた。抜群に美味いはずの煮物の味も、よくわからなかった。