おゲンさんとショウジさん

 畑を貸してくれる、というので、今の季節は何が植えられますか、と尋ねると、即座にジャガイモだっぱい、と応えが返ってきた。続けて、植え方、わかるのかい?と聞かれるから、分かりません、と返事をすると、教えてやっから、明日また来な、と声をかけられた。
 おゲンさんとの顔合わせはこんな感じで始まった。
 翌日、昼過ぎにヒョコヒョコと出かけていくと、もう既に万事用意を調え、野良仕事スタイルのおゲンさんが待っていた。種芋も余ったヤツをわけてやるから、と、スイスイとジャガイモの芽を避けながら切り分け、切り口に灰を塗していく。そして、クワを手に、腰をひょいと屈め、畝を立てたかと思うと、棒を立て紐を張り、今度は、真っ直ぐに植穴を掘っていく。おゲンさんの歳は、確か七十過ぎ、こちらはまだ二十代であるが、動きの早さにとても付いていけない。ほとんど、ただ呆然と見ているうちに、ジャガイモの植え付けは終わっていた。
 私たちが移住してきたのは、五月だった。柏餅、作ったから持って行きな、とビニール袋に詰めてくれたのは、餅ではなく、米粉で作った柏餅だった。食べると甘い、甘い味がする。そんなに大きなサイズというわけではないのだけれど、両手でもって食べるのがぴったり来る。夏までの間に、何度となくご相伴にあずかる事になった。
 おゲンさんの旦那さんのショウジさんは、少し認知症気味だった。おゲンさんの家を訪ねる。まずは、こんにちは、と挨拶をするが、問題はその後だ。堀こたつでお茶をいただいて話をしている時も、外で飼い犬に吠えられながら立ち話をしているときも、夫が松の剪定をしているときも、ショウジさんは人の良さそうな笑顔を浮かべてやってきてはこういう。「どこから来なすった?」「それは、それは、タイヘンでした」「こんな山奥で驚きなすったでしょう」 会話をしてしばらく経つとまた「どこから来なすった?」と始まる。ショウジさんと幾度同じ会話を繰り返したか分からない。
 現在の記憶が怪しくても、昔のことならよく覚えていることがある、と聞いた事があるので、この辺りの昔の様子を尋ねてみたことがある。「ショウジさんの若い頃、このあたりは、どんなでしたか?」 すると珍しく淀みなく返事が返ってきた。「はぁ、今とは違って不便だったわ」「獣がいっぱいいたけど、みんな殺して食べちまったわ」「イノシシだのウサギだのキツネだのタヌキだのクマだの、みんな食っちまったわ」 現在、阿武隈山中に熊は生息していないと言われている。当時はいたのだろうか、と思い、クマもいたんですか、と重ねて尋ねてみると「ああ、いたいた。みんな食っちまった」と言う。「人間もいろいろいたわ。博打打ちから泥棒から人殺しから」 人殺しもいたんですか? と尋ね返すと、「いたいた、今じゃほれ、その辺に埋まってるんじゃねぇか」と山の方へ視線を移した。結局、ショウジさんの昔の話は本当なのか嘘なのか分からないままだった。けれど、人影の薄い静かな山奥で、透明な月明かりの下に、半世紀前の死体が埋まっている、というイメージは、幻想的なリアリティがあり、ふっと月夜の晩に山陰を見てはショウジさんの言葉を思い出すのだった。
 お嫁さんのハルミさんはふくふくとした笑顔の可愛い人で、とても働き者だった。歳は四十を超えたところで、孫もいるというのだけれど、とてもそんな風には見えない、肌のキレイなひとだった。初夏から夏に向かい、雑草はたくましく生長する。広い田畑を持つ農家では、草刈りが追いつかない。日中の仕事を終え帰宅してから日没までの間、刈り払い機の音がどこからでも聞こえてくる。ハルミさんの旦那さんのミノルさんは、蛇を見かけると耕耘機をおっぽり出したまま家へ逃げ帰ってくるほどの蛇嫌いだったので、草刈りは専らハルミさんの仕事だった。ハルミさんは実に手際よく、リズムよく草を刈る。季節の花を残しながら、雑草だけを上手に刈っていく。だから、夏を迎える頃、おゲンさんの家へ向かう道路脇の斜面は、ヤマユリオミナエシナデシコ、キキョウなど、今はすっかり珍しくなってしまった野の花が咲き誇るのだった。花々が静かに風に揺れる様子は、ハルミさんのふくふくとした笑顔に似て、優しく、美しかった。
 ある日、ハルミさんとおゲンさんに、ショウジさんがふっと真面目な顔をして呟いた。「オレ家(げ)は、ムコにはぐったなぁ」 このあたりでは、いいお嫁さんやお婿さんをもらったときには、「ヨメ(ムコ)に当たった」と言い、逆の場合は「ヨメ(ムコ)に外れた(はぐった)」と言う。ミノルさんは、ムコではなくショウジさんの実の息子である。そのショウジさんの何気ない言い方が、実に真に迫っていて、ハルミさんとおゲンさんはいつまでも笑いの種にしていた。そう、端から見ても、ハルミさんは実に働き者のお嫁さんだった。
 ショウジさんは、犬を連れてふらりとどこかへ出かけてしまうことがあった。頭だけでなく、足下も危なっかしくなって来ているので、いつか大きな擦り傷と打撲痕を作って来た事もあった。おゲンさんは、そんなショウジさんの様子を見ていなくてはならないので、近所にお茶のみにも出かけられず、一日家にいることも多かった。とある夏の盛りの暑い午後、ショウジさんがまた犬を連れて出かけようとしていた。それを見つけたおゲンさんが、部屋から大声で叫ぶ。「じっじ−、行ぐな−。」「じっじー。戻ってこ−。」 それでも足を止めようとしないショウジさんを追いかけて、さらに大声で叫ぶ。「じっじー、こんな暑いときに死んだら、組のみんなから恨まれるー」「じっじー、死ぬから、行ぐなー」 この言葉が効いたのかどうかは分からないが、程なくショウジさんは引き返してきた。おゲンさんはそれを見届けてから、「こんな暑い時期に葬式出したら、なんでもかんでも腐っちまってタイヘンだ」と私に話し出した。いつか組内で真夏に葬式を出したときの事だ。「朝にご飯炊くばい、そうして握っておいた握り飯が、昼には腐っちまうんだもの。」「煮物でも何でもかんでも腐っちまって、イヤになっちまう。」 この辺りでは、未だ葬式は葬祭場より組内で出す事の方が多い。おゲンさんの叫びは、まったく真実味を帯びていた。
 その後、私たちがこの集落を出た年の冬、ショウジさんが亡くなったと人づてに聞いた。朝、布団の中で静かに息をしなくなっていたそうだ。葬式の日は年の瀬も差し迫った大晦日で、折も悪しく、その冬一番の積雪量を記録した日だった。葬式の参列者は、皆、長靴に傘を差し、凍えながら出棺を待ったのだと言う。してみれば、あの時のおゲンさんの言葉は、ショウジさんにはよほど身に応えたのだろう。おゲンさんは、きっと葬儀の間中、苦い顔をしていたに違いない。草葉の陰で、ショウジさんが笑いながら舌を出しているような気がした。