2020/03/20 いわれのない差別

お役所仕事の不思議なことのひとつは、どう考えても論理的におかしな用語をいつまでも使い続けることだ。「いわれのない差別はやめましょう」という言葉がしばしば聞かれるのだが、冒頭につけられた「いわれのない」はまったく意味をなしておらず、そもそもつける必要がない。これをつけることによって、では「いわれのある差別」ならいいのか、と余計な反駁をこうむることも目に見えている。だというのに、頑として「いわれのない差別はやめましょう」と言い続ける。アイヒマン的な意味合いで深く考えることもなく、ただ前例踏襲をしているだけなのだとは思うが、この言葉を見る度にゲンナリしてしまう。

この言葉がひっかかるのは、「福島では健康被害が出るほどの被曝量にはなりませんでした。いわれのない差別はやめましょう」との流れで使われるのをよく見かけるからだ。この場合の「いわれのない」は意味がないのではなく、攻撃性を帯びている。つまり、被曝量と健康被害に関連して差別について言及することによって、この言葉の限定範囲外にいる存在には差別をしてもいい、と差別可能な対象を指し示すことになる。「健康被害が出るほどの被曝量を受けたのであれば、差別をすることに理由がある」とこの言葉は述べてしまっている。現実世界にそういった人が一人も存在しない状況であればまだ罪はないが、現実に健康を害するほどの被曝した人は、広島・長崎の原爆をはじめ、JOC臨界事故などで多数存在したし、いまも存在している。その人たちは実際に差別を受けたのだが、この言葉では、そのことさえ肯定してしまうことになる。なぜ余計な前提を排し、「差別はやめましょう」とシンプルに言えないのか、その理由がよくわからない。ここにもアイヒマン的な意味合いでのなんらかの思考停止が働いているのかもしれないが、それにしても、この言明は無自覚な悪意に満ちている。身内にはいなかったにせよ、身近に被爆者が多くいる広島で育った者としては、どうにも不快であるし、容認しがたい。というと、科学を否定するのか!と怒り出す人がたまにいるのだが、科学はしばしば差別を肯定することもありうる、という前提の上で、科学を肯定するなら差別も肯定しなくてはならない、というロジックになるのだろうか。これもまたよくわからない。