点描:2019年10月7日

2019年10月7日付け、朝日新聞。「あの頃のように暮らしたい 大熊町、避難指示の一部解除半年」 https://digital.asahi.com/articles/DA3S14209363.html

同じ公営住宅で暮らす人の大半は、まだ顔見知りではない。でも、「すぐに仲良くなれる」と信じている。「だって、ここで暮らしているのはみんな大熊町の人なんだもの。原発事故に被災した同じ境遇同士、昔みたいに助け合って生きていけるさ」

どこかで読んだことのある文章だと思い、すぐに先日買い求めた、復刻再販された石原吉郎の『サンチョ・パンサの帰郷』の「あとがき」だと思いあたった。

アウシュヴィッツの経験を書いたフランクルの『夜と霧』冒頭に引かれている〈すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった〉という一文の後に、石原は「あるいは、こういうこともできるであろう」と書く。〈最もよき私自身も帰ってはこなかった〉。

石原吉郎のこの文章は、若い頃に読んだことがあり、強い、そして、不可解な印象を残したことを覚えている。もっとも謎めいて見えたのが、続く「私にとって人間と自由とは、ただシベリアにしか存在しない」という一文だ。
そして、この一文は、上記引用した言葉と私の中で同じ気配をもつ言葉として響き合う。
『望郷と海』も再読して、自分の抱いた感覚を確認したい。

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二回目に会った時に、彼は言った。

あの原発の中の出入りの会社を経営していました。48年間。一回の事故ですべてパーです。私の会社は潰れました。

四回目に会った時に、彼は言った。

あの部落に住んでいました。事故の後、川俣から郡山に避難して、その郡山の避難先で近所の方と…(しばらく言葉を詰まらせる)、いろいろ、あって、今は別の所に住んでいます。

初めて会った時に、彼らは話していた。

オレらは、幸せだよ。これが途上国や貧乏な国だったら、補償なんてなにもしてもらえねぇ。オレらはちゃんと賠償してもらって、生活できているからな。

もっともだ。そのとおりだ。そう頷いて、彼らは目の前の手打ち蕎麦を食べ続けた。ちっとも幸せそうではない、なにかに怒っているかのような不機嫌な顔をしながら、彼らは、自分達は幸せだ、と言い、もっつもっつと口に蕎麦を運び続けた。

昨日、供されたおふかしを彼らはすすんでお代わりをした。テーブルいっぱいにならんだささやかな饗応は、あの日の蕎麦と似て、また、違っていたろう。

(またいつか書く日のための備忘録として)