その死は誰が弔うのか

今年の3月6日付けの朝日新聞東日本大震災特集に、いささか地味とも思える記事が載っていた。宮城県石巻市津波に巻き込まれて亡くなった身元不明者の身元がようやく特定できて、血の繋がらない縁戚に引き取られたというニュースだった。宮城県警の担当者が調べ続け、「石巻市の近藤あさのさん(当時65)」であることが判明したとのことだった。最後に短く、このように付け加えてあった。

近藤さんは、どんな女性だったのか。自宅周辺では多くの住民が津波や火災の犠牲となり、あるいは家を流されて転居。足を引きずった独り暮らしの女性という以外には、突き止めることはできなかった。

https://digital.asahi.com/articles/ASN3633DQN33UTIL08N.html

ここに記されるは、「石巻市の一人暮らしの女性Aさん(当時65)」ではなく、「石巻市の近藤あさのさん」でなくてはならなかった。その時、確かに、そこに近藤あさのさんは生きていたのだ。固有名はそれを静かに、しかし、雄弁に伝えている。新聞記事に記される一般の生活者の個人名がこれほどまでに意味を持つ記事は、この先もそうお目にかかることはないだろう。書いた記者は25歳。抑制の効いたトーンの中に、若い、大学を出てそう時間が経ってないであろう記者が、赴任先の被災地に暮らして見て聞いたさまざまな思いを籠めたような気迫を感じさせる。あまた読んできた東日本大震災の関係の記事のなかでも記憶に残る、しみじみとよい記事だと思った。

この記事のことを思い出したのは、いま読んでいるビヴァリー・ラファエル『災害の襲うとき』に次のような記述があったからだ。死と遭遇したり、近接したりする災害に直面した被災者が、その後、どのようにその精神的な衝撃を克服していくかについて触れた箇所だ。

「公共的な儀式・祭典・声明」もまた、個人や集団の感情解除の手段となる。特別の儀式、記念式典、公的な追悼行事、それに災害の苦難が国家的または国際的に認知されることが、涙と怒りと悲しみの解除を促す。 (153ページ)

同時に思い出したのは、東日本大震災の追悼記念式典を来年10周年を一区切りとする、との方針が政府から示されていたことだ。その方針が今年の3月を前にして公表された時に示された理由は「どこかで区切りをつけなくてはならない」という、いかにも日本的な他律的なものであった。報道で付け加えられる解説にも、年々追悼式への参加者は減っている、あるいは、他の災害でも追悼式は国主催で行われているものは終戦記念式典を除いて他にはない、といったもので、形式論的には理解できるものの、いまひとつ釈然としないものであった。というのは、そもそも追悼式典とは、なんのために行われていたのか、その本来の目的に照らしてみてどうであったのか、そうした意見はどこにも見られなかったからだ。ラファエルの記述のこの箇所は、日本では誰も触れようともしない(従って考えようともしていない)追悼式典の本来の目的や意味について語っている。

なぜ、「災害の苦難が国家的、国際的に認知されることが、涙と怒りと悲しみの解除を促す」のだろうか。これには、根本的には、人間は出来事の無意味さに耐えられない生き物であるという、人間の本性的な部分に起因しているのではないかと考えている。自分の運命、人生を変えてしまった出来事に、なんの意味もないということは、当事者にとっては直接的な被災とはまた別の耐え難い苦痛となる。だから、後付けででもいい、なにかの意味を与えようと苦闘する。しばしば荒唐無稽のような話であるかもしれない。あるいは、他人には共感できない意味不明な物語であるかもしれない。突飛な行動となるかもしれない。だが、それが人間という生き物なのだ。

自分の経験からも実感として感じるのは、苦難の経験をした人間が、直接的な被害がある程度落ち着いたのちにもっとも強い衝動して残るのは、自分のこの経験を誰かに伝えたい、残したい、という願望である。自分の苦難をなかったことにされたくない、その経験が確かにあったのだと認めてほしいとの衝迫が残される。これが満たされない場合、悲嘆はさらに強められ、怒りと悲しみは深まることになる。だから、苦難を経験した人びとは、語り伝えようとする。もちろん、すべての人にとって語ることが可能となるわけではない。語ることができるのは、ある意味、特権的な一部の被災者だけだ。語るだけの精神的な落ち着きを取り戻し、言語化するだけの能力を持ち、またその気力と時間と環境とに恵まれた人びとだけだ。だが、潜在的には、たいていの被災者は語りたいという願望を持っているのではないか、と私は思っている。その記憶が苦痛でしかなく、忘却の向こうへ押しやろうとしている人にとっても、それがもし可能であるならば、語りたいという願望を心の奥底に持っているのではないか、と思う。なぜなら、語ることによってはじめて自分の経験を整理し、相対化し、やがて受け入れることができるようになるからだ。これは、言葉で言うのは簡単だが、深い傷を負った人にとっては多大な困難を伴うものであり、全員ができるようになるとは思わない。発話する前に語ることを断念することも多いだろう。

だが、少なくとも、その苦難が語られ、認知され、社会のなかに位置付けられることは、災害後の社会が、そして被災によって精神的に受傷した人びとが再生していく過程において、大きな意味をもつものであることという認識を共有していくことは、頻々に災害が起きる世界を生きる上で重要なことではないだろうか。そして、追悼記念式典は、災害後の社会を再生していくにあたって、日本社会においてどういう意味を持っていたのか、この先どのようになっていくべきなのか。残念ながら、日本社会でそのことが意識されたことは、これまでなかっただろう。そして、この先も意識されることがないまま、いつものように、「なんとなく、なし崩し的に、時間も経ったし、考えるのも飽きたし、終わっちゃうか」くらいのノリで終えてしまうのだろうか。

もう一度、冒頭の記事の話に戻る。近藤あさのさんの存在は、身元を突き止めようと長い時間をかけた宮城県警の担当者たちの力によって明らかになり、こうして記事にされることによって、社会に認知された。近藤あさのさんだけではない。もっと多くの、同じような、たとえば宮城県警の遺体保管所に残されている24体の身元不明者たちも、彼女と同じような固有名を持った存在であったことを認識させた。名前さえ明らかにならない、その遺体の一人一人に固有名があり、人生があった、それは当たり前のことのように思われるかもしれないが、私たちは容易に忘却してしまう。そのことを覚えていてくれた人がいたということに、私は、心から安堵した。その存在さえ忘れ去られそうになった人たちを、忘れないでいてくれる人たちがいるということに。自分のことではないのに、こんなに安堵したきもちを覚えたのはいつぶりだろうか。これが、おそらくラファエルのいうところの「集団の感情解除」なのだろう。あの日以来、心のなかのどこかに、悲しみや怒りがこびりついているのだろう。そして、それを解きほぐす作業は、きっとまだ終わっていない。