昨日、山木屋で

芋煮会に顔を出したら、ちょうど自分が出ている「こころの時代」の録画を皆で鑑賞中で、画面に大写しになった自分の顔に思わず仰け反った。
大勢で鑑賞するのはさすがに面映ゆかったので、帰宅後、録画した番組を眺め、じっくりと自分の表情の動きを見ていた。誰かに似ていると思い、母方の祖母であることにすぐに気づいた。著書あとがきにも書いたが、私の名の「安東」姓は、母方の祖母の旧姓だ。画面の自分の表情を眺めながら、亡くなった祖母の若い頃に出会ったかのような、自分の表情なのになぜか懐かしい、奇妙な感覚を抱いていた。

大阪の箕面に生まれ育ち、父母の郷里の岡山の縁戚の祖父に嫁いだ祖母が私に話し聞かせた昔話は、私の歴史認識を培ったと言ってもいいだろう。

ご先祖様はな、その昔、あのお城にすんどったんじゃ。じゃけど、悪い家来がおってな、追い出されてしまったんじゃ。

長期休暇のたびに訪れていた祖父母の家で、幼い頃何度となく聞かされた昔話だ。昔、昔というのは、どれくらいの「昔」なのだろう。子供心に、きっとおじいちゃんのおじいちゃんくらいの昔には、きっとお殿様だったんだ、と思った。けれど、年を重ねたある時、祖父の祖父がお殿様というのは時代に合致しないことに気づいた。どれくらい昔なのか調べてみたら、戦国時代の話であった。在地豪族であったのか、戦国時代に一所領を得ることになった一族は城主となったが、下剋上の争いに敗れ、その後は、その地の大庄屋として戦後までつなぐこととなった。

こうした一族の歴史を調べることが好きでたまらなかった従兄叔父がいた。大学時代に受講した民俗学の夏休みの課題に必要で、何の気なしに一族の墓について尋ねたところ、夏休みもとっくに終わり新学期の課題に慌ただしくしているところに長文の手紙が届いたことがあった。そのありがたみも感じることもなく、私は、ただ夏休みの課題を終わらせるのに間に合わなかったことを恨みに思い、葉書一枚のお礼状で済ませた。写真だけを撮って適当なふざけ半分の探検記のようなレポートとも呼べないレポートを提出したら、墓場は典型的な両墓制の形式を残してあったものとかで、民俗学の教員は驚喜していたそうだが、その授業も欠席していた。(私は、怠惰で不真面目な学生であった。)

皆、祖母も含め、鬼籍に入ってしまった。画面の向こうの自分を眺めながら、もしかすると、これは私ではなく若い頃の祖母なのかも知れない、と、そんな突拍子もないことを考えたのは、きっと私も年をとったからだろう。