滂沱の雨が降る

狭く短い隧道をくぐってすぐ、そのまま見過ごしてしまいそうな細い山道へ右折する。上り坂の両脇には杉林が天を指す。冬期は日が差さず、路面の凍結が消えることはないだろう暗く狭い道は、あらかじめ知らなければ、この先に人が住んでいるとさえ思わないかも知れない。

 

わずか数分、車を走らせた先に唐突に開けた駐車場が広がっていた。駐車場の奥には、古い平屋の木造家屋が手前に一棟、その奥にさらに一棟。脇には、物置と見えるやや広めの平屋建てが見える。その建物は、私設の炭鉱資料館なのだと言う。家主が半世紀がかりで集めた写真や資料が壁いっぱいに展示されている。この場所には、かつて炭鉱があった。今は杉で埋め尽くされた山は、山肌がむき出しで掘り出した石炭を運ぶためのトロッコが走り、炭鉱住宅がびっしりと建ち並んでいた。閉山してから40年が経過し、往事を偲ばせるものは、家主の住む炭鉱住宅と物置、そして岩肌に残された鳥居と祠、坑道入り口を模して再現された採炭現場だけだ。

 

炭鉱夫とその家族で賑わった当時の賑わいを微塵も感じさせない静けさの中で、かつては鶏舎にしていたという資料館に入り展示を眺めていると駐車場に軽トラックが一台走り込んできた。中から人がひとり走り下りたかと思うと、馴染みの様子で「資料館」の入り口を跨ぎ、私たちを見まわし「あんたたち、どこから来たの」と尋ねる。同行の客人が「東京から来ました」と答える。「もしよければ説明するけど?」と彼は人なつこい笑顔を浮かべる。「ここのじっちゃん、元々、炭鉱にいて自分が懐かしくて、資料集めてこの博物館作ったんだけど、もう94なの。年取っちゃって、自分では説明するの容易じゃないから、誰か来たら説明してやってくれって、オレ頼まれてるの。よければだけど。」

 

申し出にぜひ、とお願いをすると、彼は慣れた様子で手早く説明を始めた。この炭鉱の来歴は江戸時代末に遡ること、炭鉱の発見者のこと、往事には多くの人がいたこと。壁の資料や写真を指さしながら、人なつこく語ってゆく。

 

「炭鉱は、ひどかったよ。ほんとにひどかった。炭鉱で働いていて、70超えて生きている人、ほとんどいないから。埃吸い込んで、肺をやられちゃうから。オレは今、71だけどね。炭鉱が終わる一番最後の頃、3年だけ山に入ってたの。ひどかったよ。オレの目の前で、岩が崩れてきたこともあった。オレは無事だったけど、目の前で怪我した。そんなことが日常茶飯事。」

 

「いよいよとなると、中に人がいても扉閉めちゃうの。これ以上被害を広げて炭鉱をダメにしたくないから。」

この炭鉱であった80数名の犠牲を出した事故を報じた写真の前で、言葉に力を込める。

「後から扉開けたら、その扉に手の血の跡がびっしりついてたって。苦しくって出たくって引っ掻いたんだろうね。ひどいもんだ。そんなのが当たり前。それが炭鉱。」

 

話している内容は重いものなのに、彼の語り口は陽気で軽やかだ。黒い合皮のジャンパーは、左半分は表面の合皮が剥げ、下地の布が見えている。短くなった煙草を惜しむように吸いながら、彼は立てかけられた一枚の額縁を指さす。

 

展示物の中でも大きな額に入れられた紙には、手書きの詩のような文章が書かれている。炭鉱(ヤマ)の炭鉱夫(オヤジ)たちを思うと滂沱(ぼうだ)の涙が流れる、という振り仮名入りで書かれたそれには、「滂沱」の文字が強調されてとりわけ大きく書かれている。「これね、オレが書いたの。」と照れくさそうに彼は言うと、語りはじめた。

 

「デレスケ」ってわかる?

 

 「ろくでなし」「宿六」「だらしないやつ」と言った意味合いの方言を私たちが知っていることを確認すると、彼は笑って続ける。

 

「炭鉱のオヤジたちって、みんなデレスケだったのよ。家帰ってきたら酒飲んで暴れて、奥さんに暴力振るったりして、それで自殺しかけた奥さんだっていて。」

「そちらの旦那さんはそんなことないだろうけれど。」

 

彼は私と客人を夫婦だと思っているようだった。話の腰を折るのが悪い気がして、曖昧な笑みを浮かべて、そのまま彼の話を聞く。

 

「ほんとにデレスケで、オレのオヤジもそうだった。だから、オレは、オヤジのこと大嫌いだった。本当に嫌いだったの。でも、自分がヤマに3年入って、それから子供を育ててみて、ああオヤジはこんな思いをしながら、オレたち育ててくれたんだなと初めてわかって、昼間ヤマのなかでこんな思いしたから、酒も飲まずにいられなかったんだなって、気持ちわかって泣けてきたっていうか。そんときオヤジはもう死んでたんだけど。それ「滂沱」って書いたの。「滂沱」という言葉知ってる?」

 

私たちが頷くと、彼は満足そうに繰り返した。「滂沱って、涙がこう溢れて止まらないって感じね、この言葉知って、ああこれだ、と思って、こう書いたの。」

彼はどこか誇らしそうな表情を浮かべて「滂沱」という言葉をまた繰り返し、照れくさそうに笑った。

 

「炭鉱の事故でいっぱい人が死んでるの。その人たち、今も何十人、何百人ってこの地面の下にいるの。オレらが暮らしているこの地面の下に。すごい話だよね。」

 

「オレの話はこれだけ。こんなもんでよかった?」

 

そう言うと、彼は来たときと同じように軽トラックに飛び乗るようにして走り去っていった。

 

 

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暗い坑道は閉山の時に注入された水で満たされている。わずかな流れもさざめきもなく、ただ静謐だけに満たされ、遮断された時のままに、無限に思える時間を刻んでゆく。大地の下に網の目を張り巡らすように残されたその穴にこの先も光がさすことはなく、暗く、昏く、くらく、クライ。地上に遺された人びとに滂沱の雨が降る。空は遠く遠く、果てがない。crying, crying, crying…。降りそそぐ雨は温く、春は近い。

 

 

2019年3月11日に。