本の感想『世界の核被災地で起きたこと』

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環境ジャーナリストである著者が、世界各地の核被災地に実際に足を運び、取材して書かれた本書では、核開発の歴史、その経緯で起きたこと、その後なにが問題として残されたのかが一望できる。読者の関心具合によって既知の事柄もあるであろうし、まったく知らなかった事実もあるだろうが、こうして核開発がはじまってからの歴史を、現地の実情を踏まえながら一冊にまとめられた意義は非常に大きく、読後、事実関係の羅列を超えた新たな視界が開けるだろう。

書評然とした感想を書こうかと思っていたのだが、どうしても原発事故以降の自分の経験に引き寄せて読んでしまうため、自分自身の経験と重ねながら感想を書いていくことにする。

一読して、最初に抱いたのは、福島の経験もこうした地平に並べられる出来事になったのだなという感慨だ。広島、スリーマイル、セミパラチンスク、マラリンガ、チェルノブイリ…、これらの地名とともに語られることになるのは、原発事故が起きた以上、当初からわかりきったことではあったが、あらためて書籍として示されると感慨を一層深くする。この「感慨」がどういった種類のものであるかを説明するのは難しいが、出来事が個別の経験を超えて一般化され、やがて、当事者さえ超えて歴史の波にあらわれていく過程に入ったのだという嘆息とも、安堵ともつかない思いが静かに沸き起こってくる。福島の章には、私の名前も出てきているため、そのことが一層その思いを深くするのかも知れない。

注)著者と私の面識はない。私が書いた以下の論文から著者は私のコメントを引用している。 "Reclaiming Our Lives in the Wake of a Nuclear Plant Accident" (翻訳は友人の荒井多鶴子さんによるもの)日本語原文は「暮らしを、ふたたび、取りもどす」(『アンジャリ 』27号)

その感慨は、決して嫌なものではない。著者は、ジャーナリストとしての第三者的視点に加え、時にユーモアさえ交えて簡潔にテンポよく記述を進めていくので、さながら旅行者の核被災地訪問記を読み進めているようでもある。その冷静な距離感が心地よくさえ感じられる。おおよそ核被災地を巡る言説は、極端に感情的であるか、専門的であるかで、よほど深い関心を持った人間でなければ、触れることさえ躊躇われることがほとんどであるが、本書での著者のよい意味での他人ごと感は、自分も核被災地訪問の旅に出かけてみようかと思わせるくらいだ。

だが、私が福島に住んでいるということがそう思わせるのかも知れないが、福島訪問の章では、そうした著者の第三者的な飄々としたスタンスも、やや崩れているようにも思える。それは、福島の事故が起きてまだ年数が経っておらず、人びとの傷も生々しく、また現在進行形の出来事だということからかもしれない。
本書では、放射能リスクに関しては、「主流の科学的見解」に従って判断するというスタンスを採用している。(しかし、それによってすべてを問題なしとするわけではない。著者のスタンスは、冒頭の「序章」で明確に記されているので、そちらをご覧いただきたい。) 福島訪問の章の後ろにある「第20章 ミリシーベルトーー理性の照射」では、放射線の安全指針をめぐって繰り返されてきたLNT(放射線のリスクには閾値はなく、少量であっても量に従ってリスクも増減するという考え方)と閾値ありの論争に触れ、これまで採用されてきたLNTモデルではなく、閾値を採用すべきだ、と述べている。

この箇所は、福島の様子を実際に見た著者の困惑があらわれているように感じられる。「主流の科学的見解」に従えば、福島事故を巡って人びとが抱く恐れや、また避難区域の荒廃を含めたその社会的影響は、理解不能なほどに不合理なものに思えるだろう。到底健康被害などあり得ないだろうこれほどの少ない放射線量で、なぜ人びとはここまで恐れを抱き、また広大な区域を荒廃させる必要があるのか、と。私もこうした意見はしばしば外国人から耳にする。その際に説明するのは、次のようなことだ。
まず、福島県内の避難区域の設定には、LNT仮説は関係ない。日本政府は、事故が起きて直後、東京電力福島第一原子力発電所からの距離に従って同心円状に避難区域を設定した。これは第一原発構内の原子炉付近の各種測定機器が使用不能になっていたため放出量を予測することができず、安全側に見積もった距離に従ったためである。
その後の避難指示区域の再編・解除にあたっては、年間20mSvという基準は採用されたものの、2017年までの解除に関してはどの区域も大幅にこの基準を下回っており、現実としてこの基準はほぼ機能していない。現実のプロセスは、政治的行政的社会的に入り組んだ状況によって動いており、20mSvは単に数字として存在するだけである。避難指示解除の遅れは、むしろ、日本政府が施策として放射線防護の基準を利用することができなかった政治的行政的機能不全によるものであり、ここでもLNT仮説はほとんど関係がない。
もうひとつ言えるのは、仮に閾値を採用するとしても、実際にどの数字を採用するか決めるのは、まず不可能だろうということだ。現在の主流の科学的見解では、100mSvが観測可能な健康リスクの指標として示されている。だが、あらゆる環境基準において、リスクが顕在化するギリギリのラインに基準値をとることはありえない。従って、100mSvより下のどの数値を採用するかということになる。ここにおいては、科学者集団でも共通の見解を得ることはできない、というの� ��私の見方である。これまで放射線の専門家の集まりにもいくつも顔を出してきたが、ある専門家は極端に安全だと言い、また別の専門家は非常に慎重な態度を示すといったことは常態で、その差は一般社会における温度差とさして変わりがないようにさえ思える。(これについてはアメリカの原子力学会が主催する会議で非常におもしろい光景を目にしたので、そのうちに書いてみたいと思っている。) これが研究室の中だけの話であれば、いくらでも時間をかけて見解の違いについて議論を繰り広げればいいが、社会的には、今ただちに基準が必要とされているのである。科学者たちの間で共通見解がまとまるまで待っているわけにはいかない。そうした状況においては、LNT仮説を採用することは「当たらずども遠からず」というところで、最良とは言えないものの、悪くはない選択であろうと私は考えている。
さらにもうひとつ指摘しておきたいのは、著者はLNT仮説を用いて集団の被害を推計しているが、この使用法は、現在はICRP放射線防護の指針を勧告する国際NGO)では否定されている。

(161) 集団実効線量は,放射線の利用技術と防護手順を比較するための最適化の手段である。疫学的研究の手段として集団実効線量を用いることは意図されておらず,リスク予測にこ の線量を用いるのは不適切である。その理由は,(例えば LNT モデルを適用した時に)集団実 効線量の計算に内在する仮定が大きな生物学的及び統計学的不確実性を秘めているためである。特に,大集団に対する微量の被ばくがもたらす集団実効線量に基づくがん死亡数を計算す るのは合理的ではなく,避けるべきである。集団実効線量に基づくそのような計算は,意図さ れたことがなく,生物学的にも統計学的にも非常に不確かであり,推定値が本来の文脈を離れ て引用されるという繰り返されるべきでないような多くの警告が予想される。このような計算はこの防護量の誤った使用法である。(『ICRP Publication 103』

もっとも、放射線、特に一般環境中に放射性物質が散らばった後(ICRPの用語で言う「現存被曝状況」)の安全指針については、専門家でさえ理解が相当に危ぶまれるところなので、上に指摘した箇所については、著者に非があるとは思わない。

ひとつはっきりと言えるのは、福島にもたらされた放射線量に見合わない被害は、著者自身が本の中に繰り返し記載するように、政府と原子力産業、そして専門家に対する信頼の欠如からもたらされたものであるということだ。そして、その信頼は、繰り返した事故とその後の不始末によって、政府と原子力産業みずからが壊してきたものである。どのような指針があろうとも、人びとがそれを信頼しなければ、社会的にその指針は実用不可能となる。そして、それが核災害後に起きることだ。福島においても、どのような指針が示されていたとしても、若干の違はあるだろうにせよ、大枠において現在起きている状況を免れることができたとは私には思えないのだ。

福島に重ねて考えて本書を読んだときに、重苦しくのしかかるのは「廃棄物」の問題だ。核被災地のどこででも廃棄物は、最大の問題として残されたままだ。そして、ほとんどの場合で、廃棄物は仮に置くと決められた場所に留め置かれることになる。福島第一原発事故の後に、原発の全基廃炉を決めたドイツの事例は示唆的である。原子炉をすべて廃炉にするということは、それらがすべて核廃棄物となることは意味する。処理方法も定まらない段階で発生する大量の核廃棄物をどのように処理するのか。本書によればドイツでは岩塩坑の跡がその候補となっている。少なくない住民は、金銭的補償によって土地を手放すことに同意する一方、過激な反対派とごく少数の土地に根ざした住民が強固な反対派として残される。ゴアレーベンの予定地では、1694年に先祖がその土地を買って以来その地を所有し続けているという男爵がそうだ。彼は著者に、自分には義務がある、と語る。「代々受け継いだ土地を守り、子孫へ残すという義務が」。
祖先から受け継いだ土地を歴史を超えて守り続けることをみずからの使命と心得る彼は、本来は保守的な人間であるにもかかわらず、環境団体グリーンピースにも加入し、政府の方針に抗し続けている。多くの人びとが、核廃棄物はゴアレーベンに捨てるしかないだろうとみなしているが、反対する最後のただ1人となっても、おそらく彼は反対し続けるだろう。その土地は、彼の所有するものではあるが、一族の歴史そのものであるからだ。彼自身の、そして、過去、未来の一族の精神的な存立基盤を支える、わかりやすい言葉で言えば、アイデンティティを支える土地を手放すことは、彼にさえ許されていないのだ。
同じことは、世界のどこででも、もちろん日本でも起きる。土地と人の繋がりは、暮らしの場所を移すことが当たり前になっている現代において、顧みられることは少なくなっているが、それでもなお、土地とともに生きることを自らのアイデンティティと一体化させている�� �びとは存在する。それらはただ財産、資産としての土地ではない。土地の守護精霊を意味する「ゲニウス・ロキ」という古い言葉がある。土地を守り、土地に守られながら生きる。そのことを自らの「根」とする人びとは少数であったとしても、現代にも存在する。こう考えた時に、超長期間にわたって残り続ける核廃棄物の管理問題は、この先も長きにわたって、その土地土地で紛争を引き起こし続けるのだろうと考えざるを得ない。

いずれにせよ、本書は、これまでの核災害について、そして今後の核政策、核廃棄物の問題について考えるにあたって、広い、複層的な観点を提供してくれる、実に有益な著書であることは間違いない。福島のみならず、核問題に多少なりとも興味を持った方には、ぜひ一読をお勧めしたい。

最後になったが、本文中の誤記と思われる箇所について、いくつか指摘しておく。

203ページ「津波で溺死した何万もの犠牲者の遺体は原子炉の半径数キロにわたって散らばっていたが」

東日本大震災全体における犠牲者の数は2万人弱になるが、福島県では、全域でも死者(直接死)1,605名である。(2019年5月10日現在) 「何万」は誤記であると思われる。

223ページ7行目「非難指示」→「避難指示」
234ページ「イギリスでは数千人が年間200ミリシーベルト以上の放射線を浴びている。また、もっと多い地域も存在する。インドのケララ州などがそうだ。」

→世界でもっとも高い自然放射線地域といわれるインドのケララ州は、「平均的な値として住民の被曝線量は 3.8mGy/年であり 5mGy/年を超えるものは全体の約25%を占める」(https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-02-07-02.html)とある。イギリスで年間200ミリシーベルト以上は、医療被曝、職業被曝を含むか、ないしは単位の誤記ではないかと思われる。