2015年、遅くとも2016年までのわたしは、ずっと「間に合わない」と焦っていた。
 避難指示解除の遅れが、避難区域の将来にわたって壊滅的な影響を与えることは、避難指示が出ていた時点からわかっていた。わたしが走り出した、走り続けた大きな理由は、そこにある。間に合わない、間に合わない、時間がたてばたつほど、避難区域の荒廃は目に見えるものとなり、焦りは強くなった。2015年後半から2016年にかけての焦燥は、半泣きであったと言ってもいい。
 そうして、2017年春。避難指示の解除は、大きな感慨もなく、淡々と迎えた。もはやなるようにしかなるまい。主に属人的ななんらかの努力と試み、そしていくつかの好条件によって、局所的にはうまくいくところもある。しかしながら、全般的には、傷口は深く、超長期的にわたって対処していかざるをえないだろう。
 ここのところ、ごく一部で活発になっている基準の見直しと帰還困難区域への対応の議論の内容は、あまりに時機を逸しており、彼らにはなんの現実も見えていないことに疲弊に近い徒労感を抱く。2015年から2016年にかけて、比喩ではなく、断腸の思いで時間が過ぎ去っていくのを見送った。2014年に言っていただきたかった。なにをいまさら。
 現在、動き出している特定復興拠点案のいくつかを見ても、期待居住人口は過大に見積もられており、ハコモノは計画通りに行えたとしても、その後は、よほどの好条件か現実的な新事業が加わらなければ、容易には維持できないだろう。自治体によりけりだが、わたしの状況認識からすると、居住人口を10倍近く過大に見積もっているものも見られる。

 帰還困難区域は、30年なりの時限付きで据え置き、その間に、他の地域の復興事業と並行して、将来構想を練り、同時に人々の生活再建と共同体維持事業を行うことがよいのではないかと、ずっと思っていた。30年といえば、長いようだが、しかし、すでに7年が経過し、現下策定されている特定復興拠点とて部分的に実現するのは10年後以降である。ライフタイムスパンで見れば長い30年も、事故の及ぼした影響が波及する歴史的時間単位で考えれば、決して長いものではない。

 個人の人生時間で考えれば、すくいがたい現実も、歴史的時間で回収することは可能だ。それを教えてくれたのは、絶望的な現実を歴史に組み入れることで、不屈の現実に変えようと苦闘している人々の姿である。
 いずれにせよ、この出来事の歴史的帰結を見届けるのは、わたしたちの世代ではない。その次、あるいは、さらにその次の世代になる。